エッセイ『怒られるくらいなら……』

 みなさんこんにちは。ひかるです。

 ところで、僕は怒られるのが嫌いです。理由は簡単。僕は自分のことを神か王様だと思っているので、怒られるというのが単純に腹立つのです。その性質は最近始まったわけではなく、幼いころから母親に叱られて怒りのあまり悶絶していた記憶があるほどです。

 ということもあり、僕は運動部に入った経験はありません。中学は帰宅部、高校は文芸部と、陽の当たらない道を歩みます。よくスポ魂マンガで主人公が理不尽(?)な怒られ方をしているシーンがあるじゃないですか。本人はその経験を糧に結局(どうせ、やはり、予想通り、よくある展開で)成長するんですけど、僕は見ていて不快に思ってしまうのでした。それくらいなので、当然運動部には入るつもりはありませんでした。「スポーツをしたことがない」と人に言うと、「えー意外!」とよく言われます。運動音痴だし、体力ないし……。

 先ほど、僕は自分のことを神か王様だと思っていると言いましたが、もちろん冗談です。怒られると腹が立つというのもあるんですが、それと同時に「必要以上にダメージを負ってしまう」のです。つまり軽く叱られただけで落ち込んでしまうし、すごく嫌な気持ちになってしまう。でも見た目はメンタルが弱そうに見えないから、ギャップがあってなかなか人に理解してもらえない。そういうのってけっこう辛いですよ、本当に。

 なので、僕は十代のころに決めたことがあります。「もう人に怒られないようにしよう。怒られるくらいだったらこっちが理不尽にキレてしまおう」と。後半は発想が皇帝ですよね。でも安心してください。今まではそんな理不尽な怒り方はしていませんから(たぶん)。

 上記の考え方には欠点が一つあります。それは「叱られないから、いわゆる成長することできない」ことです。まあ、人ってだいたい怒られて成長するじゃないですか、たぶん(よくある話ですけど)。で、たくさん怒られた経験のある人は人間的にも立派で、社会に非常に役立っているという説も有力ですよね(知らんけど)。一方で、僕みたいな消極的な考えをしている人は人間的にも未熟で、社会に貢献できないものだ、というのが一般的な考えじゃないでしょうか。

 そこで僕は考えました。「怒られるのを避ける人生を歩んでいても、結果的に社会に貢献できていれば、その人は存在価値があるんじゃないか?」と。当然ですよね。別にどんな人生を歩んでこようが、その人の働きによって世の中に価値を与えられるのなら、ふさわしい対価が支払われるし、それなりに賞賛されるでしょう。簡単な話です。

「じゃあ自分一人でいろいろ学んで、スキルを身に着けて、(怒られないような環境で)それを発揮できれば、十分生きていけるはずだ」と僕は考えました。スキルはなんでもいい。少なくとも世の中から必要とされていて(=需要がある)、なおかつそれほど簡単に得られるものじゃない(=希少性が高い)能力を習得すれば、くいっぱぐれることはない。それどころか働ける環境も選べるはずだ、ということです。

 だから僕の本職はプログラマなのです。しかもバックエンドプログラマという、比較的、代替可能性が低い(つまり他の人に取って代わられることが少ない)職種です。小説を書いているくせに本来の仕事はプログラマなんですよねー。

 では、今の僕は怒られずに過ごしているのか? まったくないわけじゃないですけど、昔からの計画通り、あまり怒られることはなくなりました。それだけじゃなく、子供のころに比べたら耐性がついたのか、ちょっとやそっとじゃ動じなくなりました。やったね!

 ところで、僕みたいに「怒られることに、必要以上にダメージを負ってしまう人」に向けて伝えたいことがあります。

・あなたの傷つきやすい性格や気質は周りからなかなか理解されてもらえないだろう
・でも決して人生を悲観しないで欲しい
・現在はSNS等でそういった人たちの声も大きくなっているから、これからどんどん僕たちのような人間の存在が認知されていくだろう
・そうすると「傷つきやすい人でも成果を発揮しやすい環境」が次々に整えられていくはずだ(=なぜなら世の中は人手不足で、メンタルが強くない人の需要も相対的に上がるはずだからだ)
・だから、その時のために、今からでも自分なりの強みを育んでいこう(より良い環境を選べるように)

 今日のエッセイはいつもと一味違ったかな? 
 僕の伝えたいことは以上です。ありがとうございましたー。

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