レゾンデートル 【第六話】

2016年 6月21日

東京 【Libera】〜自宅

 私は今、私というものを見失いかけている。そんな私がレゾンデートルについて詳しく話すというのは、車屋に魚のさばき方を教えるほど意味のないことだ。そういった状況下では存在価値の意味をなすレゾンデートルも、その意味を失してしまう。そしてさらに言うと、本来の学生としての私の本分でもある経済を学ぶことも、今の状況ではそもそも意味がないとも言えた。むしろ今となってはなぜ政治経済など、私は学んでいるのかもよくわからない。既に私の中ではその分野はレゾンデートルを失していた。
 風のない室内で天井へ伸びたロープの様なコーヒーの湯気が、目の前でその純白の体を揺らしている。しばらく見ているとそれはロープというより死に絶えた時間の抜け殻のようにも見えたけれど、かといって、時間が再生したとも思えなかった。時間は常に死に絶え、新しく産まれているだけであって、時間は一定方向にしか流れない。先頭車両の片方が無い特急列車のように。
 
 私はそんなことを考えながら、大学講義のあとのアンニュイな気分を【Libera】で過ごしていた。ランチ後の休業時間を終えて、店はディナーとなっていく。
 既に食事を終えた私はエスプレッソを飲みながら、まだ来客の無い店内を見渡すと、カナさんはカウンター内を彷徨い歩いていた。それはまるで何を探していたのか忘れた迷い人の様にも見えた。

 私は席を立ってレジへ向かった。
「ごちそうさまです。美味しかったです」
「それは良かったです。ナオト君、美味しかったですって」
 カナさんが振り返って厨房の中にいる彼に話しかけると、嬉しそうにはにかみながら、私に微笑みかけた。
「また来ますね。今度、先輩も連れてこようかなって」
「ぜひ、お待ちしてます。私もその先輩にお会いしてみたいです」
「でもねカナさん─」私はお金を渡した。「先輩って変人なんですよ」
「そうなんですか?」カナさんはお釣りを渡してくれた。「変わった人は好きですよ、私」そう言うとカナさんはにっこり笑った。

 外はしっとりと雨が降っていた。梅雨はまだ終わらない。その雨は傘を指すほどでもない、かといって放っておくと下着までいつの間にかぐっしょりと濡れてしまうような粘着質で秘匿性に富んでいるように思えた。柔らかな味の薄いホイップクリームの様な雨だった。
 どのみち傘のない私は下着まで濡れることを覚悟した。それは仕方のないことのように思えた。それもたまにはいいだろう。もう大学にも用事はないし、あとは帰るだけだ。業務スーパーに行く用事もなかった。

 自宅に帰る頃には、自宅アパートの階段が程よく闇のヴェールに包まれた暗さになっていた。ドアの鍵穴に、鍵をなかなか差し込めずに手間取る。
 ドアを開けて裏側の郵便受けに手を突っ込んで投函されたものを引っ張り出した。一つは以前注文したデリバリーの店からのダイレクトメール。もう一つは近くの中古車販売店のポスティングチラシだった。車を新しいものに変えると生活が豊かになる、と書いてあったけれど、とても不愉快で大きなお世話だった。
 部屋の中は日中のふわりとした熱気が残っていて、まるで帰りを待っていたかのように私の体にまとわりついた。熱気の匂いもする。熱気というより、湿気の匂いだ。パンにカビを生やさせ、人の心にもカビを生やす存在だ。
 とりあえず窓を開けて空気の入れ替えをしたが、外も湿気が強くあまり意味はなかった。少し離れたことろにあるバイパスからトラックの音がかすかに聞こえる。

 日中の汗を流すために私はシャワーを浴びた。
 頭からお湯を浴びると、私のショートヘヤーは濡れて首に巻き付いてくる。お湯はそのまま控えめな乳房を伝い二手に別れ、一方は乳首から床へ落ち、一方は乳房の下に潜り込み腹の方へ流れた。腹の方へ流れたお湯は三手に別れ、一方は申し訳程度に生えた陰毛を伝って床へ落ち、二手は両足から床へ落ち、排水溝へ流れた。
 体にこびりついた湿気や汚れや垢や汗が、ふやけて剥がれていく音が聞こえたような気がした。黒い粘り気のある物体となって排水溝へ向かっていくとき、それは断末魔のような音にも聞こえた。私は無意識に耳を塞いだ。
 今、私は目標や自分そのものの「何か」を失いつつあるのではないかと思った。流れていっているのは、汚れだけではないのかもしれない。
 

     私は
          私とは
                私って。
     

 すべての私に関わる事由が無くなっていくのではと、流れる水を見ながら身震いした。

 シャワーを切り上げ少しはマシになった気分のまま、私は下着もつけずに窓を開けて外を見てみた。さっきよりは幾分、不快感も少ない。
 風で体を乾かしながらしばらく露出狂いの真似事をしてから、下着をつけて無地のショートパンツに無地の白いTシャツを着る。冷蔵庫にあったよく冷えた缶のダイエット・コーラを出して、半分ほど一気に飲んだ。あまりの冷え具合に、持っている右手の指がチリチリと痺れた。
 もう二口目で一気に飲んでしまうと、食器棚からそれっぽいグラスを取り出して氷を入れ、2本目のダイエット・コーラを取り出した。
 居間のテーブルに置かれたグラスに注がれるコーラは、それこそ宿命のように泡を弾けさせた。コーラは泡を弾けさせるからこそコーラなのだ。弾けない、つまり炭酸のないコーラはただのコーラ味の水だ。
 存在意義や価値は誰が決めるのだろう。すると需要と供給が頭をよぎる。つまり、誰かが求めないものは価値がないし意義もないし理由もない。今の私が誰かに求められているようには思えなかった。

 その夜、奇妙な夢を見た。

そこは崖っぷちだった。誰かに助けてほしいと懇願したところで周囲には誰もおらず、前にも後ろにも進めないところにいるのが分かった。
 手を見るが手が見えず、ビニールのほうきのような硬い体毛が全身に生えていた。
 私の姿はカモシカだった。崖の岩肌に立つカモシカで、何時からかじっと身を潜ませていた。辺りは真っ暗で夜なのはわかるが、夜が始まったばかりなのか夜の終わりごろなのか、自分の部屋ではないので時間がわからない。
 空の星も見えず崖下も見えず、どれ程の高さの崖なのか皆目見当がつかず、ただ見えるのは乾燥した老婆の様な岩肌だけだった。

 どうすればいいのだろう。
 私は昔、漫画で見たある部屋を思い出した。入れられたが最後、出口は固くロックされ次第に壁が狭まってくる。
 次第に壁は狭まり体は20センチくらいにまで圧縮され、次はその隙間を埋めるように横から壁が迫ってくる。そして、人間はただの肉塊にされる、というものだ。つまりはどうすることもできず、足の痺れで落ちるのを待つ状態だ。
 でも、私は嫌だ。もうこんな苦しいのは嫌だった。こんな生き地獄が続くくらいなら飛び降りてやる、どうせ、もう私は一人だ。
 帰れたところで誰も待っていないし、アパートの一室でダイエット・コーラを胃袋に流し込んでシャワーのお湯を目で追うだけのそんな生活に、何の希望も目的もないのだ。
 少しでも遠くへ飛ぶために私は四本の脚に力を入れ一気に爆発させると、今までいた崖はあっという間に闇に紛れて見えなくなった。何も見えないという一抹の不安はあったけど、なぜか妙な高揚心が私を包んでいた。

 朝起きると、胸の谷間に溜まるほどの寝汗をかいていた。喉は湿度が高いにも関わらず、古い真綿を押し込んだようにガサついていた。
 体を起こしてカーテン開け、メンソール系のウエットティッシュで体を拭くと、心地よい風が体を撫ぜた。空はからっと晴れた久しぶりの日和だった。雀が鳴き、子供は登校し、車は出勤を急いでいる。朝日は私に朝を伝えていた。
 太ももについた布団の寝跡を掻きながら冷蔵庫からお茶を取り出して一口飲むと、古い真綿は綺麗に消えていったように思えた。
 私は顔を洗って歯を磨き、メイクをして髪をセットした。メイクを少し明るめのものに変え、無理にでも気分が変わるように仕向けた。深い青のデニムパンツに白のシャツを着て、上からテーラードジャケットを羽織り、ベージュのパンプスを履いた。

 私は飛ぼうかと思う。進むために。

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