日常と非日常の堺

地球はいつも同じように同じようなスピードで回り続け、その動きは不変でなのだと思っていた。

実際同じような場所から太陽は昇るし星の位置も変わらないのだから平均寿命八十歳の日本人にとっては、毎日の風景の動きは不変なのだ。僕は実際にそう思っていたし、これからもそうだと思ってはいた。

でもそれは急に訪れて、僕の約三十年間の日常を変えてしまった。

母が死んだ。眠ったまま死んだのだ。太陽も昇りきらない時間に父は、母が入院先の赤十字病院で死んだと混乱しながら電話をしてきた。僕と嫁は急いで支度をし家を飛び出した。

僕は運転をしながら、何かの間違いなのではとか、病院側の早とちり何徐内科と考えていた。

でも実際に彼女の体は冷たい蝋のように固くなり、病院の布団の中に残る僅かばかりのぬくもりが、そこに有った生の名残だった。

真っ白になった顔、横を向き下になっていた左側の顔は紫になり、口からは唾液が垂れていた。父は悲しみに泣き崩れ母の亡きがらにしがみつき、僕の嫁は自分の母の死を思い出し泣いていた。僕は目頭がじわりとするのを感じながらも、今は泣いてはだめだと思い、何とか踏みとどまった。

母の弟、つまり僕の叔父だが、彼が到着し、彼も泣いた。

母の亡きがらを綺麗にするという看護師数名を病室に残し、僕らは休憩室に集まった。

落ち着いた父は看護師と入院費の話をし、叔父は祖父母へ電話した。嫁は僕の傍で物思いにふけり、僕は病室の窓から見える、これ以上ない青空と白い雲を見上げていた。その空は、母が見れなかった今日の空だった。今でも鮮明に、くっきりと思いだせる。

日が昇るにつれて気温は高まり、八月三十日の僕の住む街は未だ残暑の厳しい状況だった。僕はこれから毎年、少なくともこの虚脱感が抜けるまではずっとこの季節になると母を思い出すのかもしれない。

母はずっと体が悪く、小児喘息、喘息、脳梗塞による下半身の障害、糖尿病、鬱病を抱えながら生きてきた。だから約六十年の母の人生は幸せだったのかは分からない。僕自身、あまり孝行な息子ではなかったし、恩返しが出来たか怪しいものだった。結婚をして実家を出た後、適度な距離感を保てるようになってからは別だが、そもそも僕と母は基本的に仲が良かったわけではない。

だからと言って母が嫌いなわけではない。むしろ母が好きだった。車の免許を持っていなかった母は、何か用があると自転車の後ろに僕を乗せ、一生懸命自転車のペダルを漕いでいた。弁当の日は朝早く起き、持たせてくれたし、僕が風邪をひいて寝られないと、寝付くまで手を握ってくれた。そんな母を嫌いになるわけがないし、理由が見当たらなかった。もちろん喧嘩することはあったが、それ以上に母が好きだったのだ。

今でも母が病院で眠っている様な気がするし、実家へ行けばタバコの煙を居間に充満させながらテレビを見ていつような気がする。でも、そんなわけないし、実家には母の遺影と骨壷と、好きだったジュースと菓子が供えてある。

今現在僕はこの文章を書いているのは葬儀も火葬も終わった、母の死から約一週間後だ。今だに何かの冗談のように感じる時もあるのは、いまいち自分がその事実を受け入れられていないのだろう。まだ非日常に片足を入れている状況なのだ。

もちろん母が亡くなったのは事実だから、気持ちの整理がついても今までの日常には戻らない。以前とよく似た日常に変わるだけだ。

でも僕はこうやって少しでも文字が書けるくらいには、気持ちが落ち着いてきている。少しずつ戻らなければいけない。

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