Sanctuary 【第七話】

2016年 7月15日

東京

 確かに私には大学講義が終わってからの用事はない。だがそれが先輩と行動を共にする理由にはなりえないと思っていた。
 いつも思うのだが何故かこの人は私によく絡む。彼がゲイだと知る前からそうなのだが、最初は私に気があるのではないかと考えたこともある。だけれど、私にはその気はない。あったところで私は男に興味はない。もしかしたら同類と思われているのかもしれない。それのほうがしっくりくる理由だ。明暗がはっきりするほどに。
 ともかく、私は先輩と一緒にファミレスにやってきた。「一緒に飯でも食おう」と誘われたからなのだが他になんの理由で来るのだろう。ファミレスでは食料品は買えない。加工したものしか提供してないからだ。
 
 店内に入ると、混み合う前の静寂と喧騒の間でまどろんだ独特な空気が流れている。やる気のない大学生のバイトが喫煙席か禁煙席かを問い、私達を禁煙席へ誘導した。
 ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さい。そう言うとキッチンへ消えた。
 先輩はいつものようにねっとりとした様子でソファに座り込むと、彼の尻はソファとくっついてしまったように思えた。それほどまでにきれいな座り方だ。
 大体に冒険のしない私は、ファミレスに来るといった段階で既に頼むものは決まっている。女みたいに決まるまでの長い先輩をおいといて、私は店内の天井へ無為に目をやる。そこにはエア・コンディショナーの風に吹かれて、踊るように小さな蛾がひらひらと舞っていた。蛾は仄かな鱗粉を振りまきながら奥の喫煙席のエリアに流れ、そのまま帰ってこなかった。誰かに見つかって潰されたのかもしれないし、うまく逃げて隠れているのかもしれない。どちらかはわからないが、その後の行方知れずというのはなぜか儚く辛いものだと思った。
「お前、決まった?」
「えぇ、半世紀前には決まってましたよ」
 先輩はくすくす笑って、テーブルの呼び鈴を鳴らしてウェイターを呼んだ。
 ご注文はお決まりですか?─決まったから呼んだにほかならない。他になんの理由で呼ぶのだろう。私がこのしみったれた顔をしたウェイターに恋をして、その告白でも行うとでも思うのだろうか?全くもってバカバカしい。宇宙でボールペンを使うために、多額の研究費を投じたアメリカ程にバカバカしい。
「私はシーフードドリア」
「俺は、とんかつ定食で」
 二人分の注文を流して、ウェイターは再び根城へ戻っていく。
 その背後を見送ってから絆創膏を毟り取る様に腰を上げ、先輩は水を取りに行った。先輩はいつもどこか影がある。私はそう感じている。
 私の分と自分の分の2つの水をテーブルに置くと、今度は絆創膏を貼るようにソファへ座った。
「なぁ」
「なんですか?」
「なんか、イライラしてる?」
「イライラ」
 私は言われた内容をそのまま口に出して、言葉の味を確かめてみた。無機質な味がした。「別に、何もないですよ」
「そうか?ならいいんだが」
 含みを残して先輩は黙った。私がイライラしているように見えるとしたら、それは先輩になにかやましいところがあるからだろう。私の知ったところではない。生理でもないし、他に思い当たる節もなかった。
「そろそろ夏期休暇だな。俺はお前と、お前の地元にいくつもりだけど、異論はないよな」
「本気なんですね」
「当たり前だろ、これ以上元気のないお前の顔を見るのはこりごりなんだよ。元気なお前が─」
「先輩」私は先輩の言葉を遮った。
「なんだ?」
「どうして。どうして、こんなに私の世話を焼いてくれるんですか?別にお互い恋愛感情があるわけでもないのに。哀れみや同情なら、私は─」
「違う」今度は先輩が遮る。ふと顔をあげると、今まで見たことのないような真剣な顔をしていた。「お前に幸せになってほしいからだ」
 ウェイターが料理を運ぶ間だけ、私たちの間にはずっしりとした流砂のような時間が流れた。重苦しい顔をして黙り込んだ私たちを見て、ウェイターは痴話喧嘩か別れ話とかでも思ったに違いない。私はなんとなく気まずくて、ウェイターの襟首を掴んで訂正してやりたかった。
「お前は」ウェイターが消えてから、先輩は口を開いた。「何年か前の俺に似てる」
 私は黙って言葉の続きを待った。
「俺は高校時代に、好きなやつがいた。でも、そいつはな、ある日突然いなくなった」
 先輩は水を一口飲んだ。定食の味噌汁は時間の経過とともに、その時間の死骸を露呈していく。
「ある病だったんだ。あいつは、俺が自分自身といずれは寝たがったのを感じていたんだが、それが危険だということも知っていた。だから俺がその一線を超えようとするまでに姿をくらましたんだ」
「その病って─」
 私はそこまで言って、まだ私のタイミングではないと気づく。聞こえていないのかどうかわからないが、先輩は私の言葉に反応を示さなかった。
「俺はあいつがそんな病だったのは、死んでから知った」
「亡くなったんですか?」
「あぁ、自殺した。いくつかの遺書の中に俺宛の物があって、それをご両親が渡してくれた。─それを読んでから、そこから一年間死んだようになった。こんな虚無感を味わうくらいなら、俺はあいつと一緒に死んだほうが良かったんじゃないかってな」
 目の前のたくあんを一枚齧り、ポリポリと咀嚼した。
「まぁ、そんなこんなでな。ここまでの経緯が俺と同じなもんで、ちゃんと彼女を見つけて失踪した理由を解き明かしてほしいんだ」
 ただそれだけだ、と言って彼は食事を始めた。
 私もカトラリー・ケースからフォークを出して、ドリアを食べ始めた。少し冷めたドリアは猫舌の私にはちょうどいい温度だった。テンポよく食べれるくらいの適正温度だ。

 
 先輩と別れてから、私は一人で帰路についた。途中で業務スーパーに寄って買い物をして、サーモンの缶詰とマッシュルームの缶詰、それと冷凍のほうれん草を買った。何に使うのかは決めていないが、保存のきくものならいくらあってもいいだろう。
 多少重い買い物袋を下げて、静かな自宅アパートへ帰る。荷物を片付けて一息つくと、私はかつてこの部屋に綾香を呼んで二人きりの空間を作りたいということを思い描いていたのを思い出した。
 綾香を駅まで迎えに行って、帰りに二人で買い物へ行く(もちろん業務スーパーではない)。そこから何を作ろうかと話をし、帰ってから二人で台所へ立って料理をする。二人で高校時代の話をしてからお風呂へ入って背中の流し合いをする。寝物語をしながらそのまま夢物語になって、朝日とともに起きて綾香におはようのキスをする。
 私はそんなささやかな思いを胸に、たった一人地元から遠く離れた地で生活していた。私の夢であって、誰にも汚されてはならない「サンクチュアリ」だったのだ。
 私は自分から先輩に追求しておきながらも、あんな話を聞かされたことにだんだん腹が立ってきた。おそらく、彼にその夢を遠回しに否定されたような気がしたんだろう。

─違う、私が悪いんだ。むしろ先輩の心の傷を思い出させたのは私じゃないか。なぜ私が彼を責めるんだ。

 分かっている。分かってはいるけれど、今はそうしないと私自身が持ちそうにない。危険な吊橋の上でジェンガをしている気分だった
 この苛立ちを抑えるために、台所でコーヒーを入れるためにやかんで湯を沸かした。時間と共に周波数の上がる音を聞きながら、立ち昇り始めた湯気をみる。時間の経過で現れては消えるある種の現象は、みな、時間の死骸と考えるようになった。影と形のない時間は、なにか別の媒体を介して自らの骸を晒しているのではないかと思うようになった。
 コーヒーの苦味のある香りは部屋いっぱいに広がって、私の心も少しは落ち着いた。ともかく考えても仕方がないのはよくわかっている。結果がわかっても、原因がわからないのだから。

 間もなく迫った夏季休暇に向けて、いろいろなものを準備する事にした。

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