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『七つの前屈』ep.未処方硲「薬要らずの健康体~侵せ、毒。~」⑧ fin.

8.

「やっぱり素直すぎるな、お前は」

「言ったでしょう? 上司の頼みを断る部下がどこにいるんだ、って」


 クラスの体操服盗難騒ぎから十年と数時間、未処方家でのプリン窃盗事件からちょうど十年、オフィスでの書類泥棒騒動から、数時間後。


 未処方硲と政宜館翳の会話。


 健康と憤怒の会合。


「専務の様子は?」

「特に、怒っても疑ってもいませんでしたよ。……いつも通り」
「いつも通り?」

「いえ、こっちの話です」


 バーナム効果。


 普段は過激な政宜館女史が、未処方に対しては珍しく、唯一温厚な先輩面を見せるのも、おそらくその心理によるものだろう。


 悪に憤怒する正義漢も、どうやら自分は味方なようだ。


 自分も正義の味方なようだ。


「でも、意外ですね。もっと激昂したりするものかと」


 受付嬢が振り撒く博愛主義は、いったいだれの味方なのだろう──そんなことを考えながら、未処方は無難な疑問を投げ渡す。


「きっと、犯人が出てこなくて安心したんだろうな」

「書類が見つかって、ではなく?」

「専務──あの強欲魔にとっては、そっちの方が重要なんだ」


 彼女は決意の滲んだ瞳で、礼の言葉を口にする。


「ありがとうな、未処方──彼の机に、わたしが拝借しておいた薬品在庫の資料を、さりげなく置いてきてくれて」


 過ぎ去ったことなので真実を述べておくと。

 富所外専務が探していた資料を彼の机の上に置いたのは、他ならぬ未処方硲自身だった。

 そして彼は自分で置いたその資料を、さもいま発見しましたという体で、専務に報告したのである。


 マッチポンプ。


 降りかかる火の粉は、濡れ衣で消火する。


「かまいませんよ。でもまさか、政宜館先輩が資料を盗んだ犯人だとは、思いもしませんでしたよ」

「盗んだわけではない。すこし、確認したい事項があっただけだ」


 事件で最も怪しいのは、いつだって第一発見者だ。


 点数稼ぎに躍起になる男子生徒然り、ピーキーな妹然り。


 だれにでも似てだれでもない平社員然り。


「そしてわかったことがある。危険を冒すだけの価値はあったよ」


 ただ、怪しいがイコールで犯人と結びつくわけではない。


 何食わぬ顔して仕事する正義漢然り。


 沈黙を貫く深窓の令嬢然り。


 犯人は現場に帰ってくるまでもなく、その場に留まり続ける。


 罪は罪として、そこにあり続ける。


「悪いな、きみまで巻き込んでしまって」

「気に病まなくてかまいませんよ、僕はただ、専務の探し物を届けただけですから」

「……そうだな。なあ、未処方」


 この一連の騒動において、未処方硲に罪はない。


 彼はただ健全に、上司の命を受けただけ。


 ひどくつまらない。


「──お前、薬は好きか?」


 勤める会社が薬品会社であるとはいえ。


 その質問が「薬を売るのが好きか」でも、「薬の開発が好きか」でもなく、「薬そのものが好きか」という意図の問いであったところが、彼女らしい。


 政宜館翳の業は、その原体験が下地になって膨れている。 


 が、その物語の披露は、また別の機会、まだまだ先のお話。


「薬、ですか……あんまり好きじゃありませんね」


 次の舞台の主役となるのは、彼。


 人畜無害な平均。


 毒にも薬にもならない基準点。


 営業課のボーダーライン。


『健康』の退屈に毒されたサラリーマン──未処方硲。


「だって薬って、苦いですし」

 無病息災な彼の身心が穢れるまで、あと──

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