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ガチでしんどいとニセモノのやさしさしか受けつけられないときある

フィクションの力ってすごいよねという話。きっかけはとある書き手の「しんどかったけどマンガ読んだらちょっと元気出た」という発言に由来する。

労働で心身ともに疲弊していた二十代後半、男性向けシチュボをしょっちゅう聴いていた時期がある。

シチュボとはシチュエーションボイスの略で、主に男性向けのそれにおいて聴き手は演者扮する女性キャラのときに彼氏くんだったり、バイト先の先輩だったり、会社の後輩だったり、弟くんだったり、お兄ちゃんだったり、陰キャなクラスメイトだったり、挙句エルフの森に迷い込んだショタだったりする。

このシチュエーションボイス、一人語りだからこそ「間」が大事でして。

台詞と台詞の合間に聴き手扮する彼氏くんやらオタクくんやらが、何かしらのリアクションをとっていることを想定した作りなんですよね。

だから、この間がつまり過ぎていると途端に没入感が薄れてしまう、いくら自分にとって心地いい声且つほどよい台詞量でも「ちょっとしゃべり過ぎじゃね?」という印象を与えてしまう(特にシチュボを聴いている状況というのは概して寝る前などのリラックスタイムなので、間に対して殊更敏感になっている可能性はある)。

ただ、そういうシチュボでも何回か聴いているうち「あー、実はこの人が演じているキャラって過度に沈黙を恐れるタイプなのかもな。沈黙=会話が盛り上がっていないと判断して、とりあえず口開いちゃう子なのかもな」とか、真偽はどうあれこれはこれで悪くないぞと思っている内なる私を見つけてしまってですね。

そのとき、ああこういう解釈ができる自分っていいなと。

フィクションを通じて自身の寛容さ、創作に対する解釈力めいたものを知れた次第。

フィクションによって癒される理由は十人十色なれど、私の場合はそのひとつにこれがあるんだろうなぁと思ふ。リアルに身を置くばかりでは、気づけなかった自分に出会える喜びみたいな。

さておき、当時シチュボにハマっていた理由を自分なりに考察してみる。

思うに、人間ってホントにしんどいとリアルなやさしさを受け入れられないときがあるんですよね。

ガチでしんどくて引きこもっているとき、気になるあの人がわざわざ家まで様子見に来てくれたらウソだろって驚きと嬉しさが綯い交ぜな一方申し訳なさが勝っちゃって、結局居留守使うみたいな。

その点、シチュボってただの癒しなので。

全肯定彼女も上京したおまえの帰りを待ち焦がれている可愛い幼馴染みもこの世にはいないので。

ニセモノのやさしさだとわかり切っていれば、難なく摂取できてしまう。

それこそ、ファンの中にもニセモノだと頭でわかっているからこそその人の活動を追えている、発信を養分にできているって人いると思うんですよね。当人に自覚があるかはさておき。

その人に対して頗すこぶるな熱量はないものの、その人の発信するものによって人生の一端が彩られていることは確かな層。

小説をはじめ、もう物を書く気概はそんなにないのだけれど、リアルな救いの手には潔癖発動するくせニセモノのそれだったら抵抗なく握り返せる層っているんだよなぁと考えたら何ぞしたためるのもアリかなと思いはじめた今日この頃。

別に推しちゃあいないけど、振り返ればおまえの創作に生かされた一瞬が確かにある。

そう誰かひとりにでもそういえばと思わせることができたなら、それはもう書き手として優勝ではあるまいか。サンボマスターかな? できっこないをやらなくちゃ。

ではまた。

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