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短編小説「アウトライダー」

春宵にロングコートは似合わない。

霧が立ち込める夜に梅の香りが何処からか漂っていた。それは春が醸す幻なのかもしれない。

夜陰を黒いコートの男が歩いていた。
コツン  コツン  コツン
と規則正しい靴音が住宅街の路上に乾いた音を立てていた。

転々と灯る電柱の夜光に男は浮かび、また闇に溶ける。現れては消えるその様が、バタフライで泳ぐ水泳選手のようだ、と俺は思った。

遥か高みから見る街の景色は、数々の人間ドラマに満ちている。
それはEarl_Hinesの「Honey Suckle Rose」のように流麗で喜劇的。澱むことなく流れる人々の生活はまた哀しくもある風景であった。

誰しもが自分だけの物語を持っている。
誰かの物語の幕が今日も開くのだ。

でんでんでろでろ
でんでんどろどろ
でんでろでんでろ
でんでろりん


おもむろにコートの男は「 前 」を開いた。

でんでんでろでろ
でんでろりん

男の生物機能が自由を謳歌していた。
裸形である。
浮き彫りにされた裸形が月下の陰影に一つの詩が完成させていた。

ちゃりーん
完全な開放

突如現れた生殖器に
若い女は叫び声をあげた。

その絶叫が稲妻のような速度で男の神経系を逆流する。ゾクゾクとした快感が背筋を駆け上る。
自分の某かが女性の琴線を震わせる事に、果てしない達成感を感じている。その影響力に於いて男は世界の中心にいた。

いいいいいいい
男は叫んだ

躍るような快感に身を震わせて、男は走り出す。

いいいいいいいい


女性からの距離、10メートル。20メートル・・・50メートル。

歓びに震えてどこまでも。
男は走る。
「Jimmy_Smith, The Cats」さながらの疾走。

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短編小説 アウトライダー 

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「こんな事はやめなくちゃいけない」
そういう事ってあるだろう?
分かっていても止められない。
まるで暴れ馬だ。手綱を曳いて抑えようとしているのに、寧ろコッチが引きずられているんだ。
欲望とはそんな引力を持っている。抗えない。

抗えない。
俺は。

春の夜に梅の香りが漂っている。
結局俺はまた此の場所に来てしまった。
スナイパーさながらの目出し帽。
全身黒いジャージに身を包む。
春宵に目出し帽は勿論似合わない。

「こんな事はやめなくちゃいけない」
そう自分に言い聞かせる。
その言葉が全く無力であることを知っている。
「なんて軽薄な言葉だ」と左手の双眼鏡が唾を吐く。
「全くだ」俺は答える。
「兄弟」と双眼鏡が言った。
「ショウが始まるぜ。」
俺は双眼鏡を構えた。幕が開いてショウが始まる。
街という名前の。
或いは人生という名前の。

或る部屋でソファに座った男がテレビを見ていた。
ロウテーブルの上にはビールとスナック。
テレビ画面にはベースボール。
全くトンチキな。
その部屋の隣の女はセックスをしている。
だけれども相手の男は女の彼氏ではない。
相手の男はその隣の部屋の住人だ。
隣の部屋には男の女房が夕食を作っている。
その女房は出来上がった夕食に殺虫スプレーをかけた。
ベースボールを見ていた男が大声で笑った。
「うるさい」と夕食を作る女が喚いた。
全くトンチキな、イカレタ光景だ。
そして。
テレビを見る男の上階の部屋には「彼女」が住んでいる。
いつも本を読んでいる。何の本かは知らないが。
いつも窓際で本を読んでいる。

アールハインズのピアノが好きだ。
「Memories of You」
流麗な。
甘く柔らかい。
人生。

ページをめくる手は軽やかに。まるでピアノのように。
彼女の表情はその度に変化する。
喜びと悲しみを交錯させながら。
その日一日の出来事をなぞるように。

彼女は毎日夜八時に帰宅する。
定時に仕事を終えて、駅まで歩き、地下鉄に乗って一度乗り換えて、3駅過ぎたら電車を降りて住宅街の中を歩くと8時になっている。

部屋に入ると彼女はまず結わえた髪を解く。
彼女の髪を下す瞬間が好きだ。
規律に縛られた髪が自由に跳ねる。
彼女が首を振って髪が広がる。
流麗に。
甘く。

「こんな事はやめなくちゃいけない」
俺は口に出してみた。
答える者は誰もいない。その代わりに、読書する彼女の指が眼鏡をついと上げた。

pppppppppppppppppppp

「キャンディを食べるかい?」
俺の上司が尋ねた。
「いいえ」
直立したまま、俺は答えた。
「人間の脳ミソって奴は一日の消費カロリーのうちおよそ20%に相当するエネルギーを使うんだってな。」
「そうですか。」
「その脳ミソのエネルギーが糖分なんだと。」
「はい」
「つまり、俺の言いたい事が分かるか。」
「はい。」
「なんだ、言ってみろ。」
「私のようなボンクラには糖分が足りておりません。」
「その通りだ、このボンクラ」
「はい。」
「キャンディーを食べるかい。」
「ありがたく頂きます。」

今日は仕事でヘマをした。
オンラインバンクで振込んだ支払金額の桁を一つ間違えた。
多い方にね。
俺は1,000枚のタオルの代価として128万円の金額を振り込んだんだ。
「2回目だ」
と上司が言った。
「はい」と俺が答えた。

俺はいつも馬鹿にされて笑われている。
後ろ指を指されている。
いけすかない同僚や「彼女」からも。

ppppppppppppppppppppppppppppp
自宅に亀を飼っている。
冬の間は冬眠している。
もう春になるのにまだ起きてこない。

亀との遊び方って知ってるかい?
チョップスティックで竿を作って餌を吊るすんだ。
その餌を亀に近づけると食いつくんだよな。
竿を持ち上げるとそのまま宙づりになった亀が手足をばたつかせるんだ。面白いぜ。
「成す術なし」ってな感じでさ。バタバタともがいて。
馬鹿だよな。
俺はそれを何度も繰り返すんだ。

まるでタンゴだ。アストルピアソラのバンドネオンだ。
亀が動いて、首で振り向いて、エサがあって、宙づりにされて、バタついて。
亀が動いて、首で振り向いて、エサがあって、宙づりにされて、バタついて。
亀が動いて、首で振り向いて、エサがあって、宙づりにされて、バタついて。
心が空っぽになるまで俺は亀と遊ぶんだ。
亀が動いて、宙づりにされて。

あんまり長く宙づりしていたら、落っこちちゃってさ。
石に甲羅をぶつけて傷を付けてしまった。
それで拗ねて起きて来ないのかもな。
暇なんだよ、亀がいないから。
友達もいないしさ。
作りたくもないしさ。
だって、喋ることなんてないぜ。
何を喋ろうか考えるだけで頭痛がする。
そんなエグザムは懲り懲りなんだ。俺を試すのはやめてくれ。面白い話ができるかどうか、試みないでくれ。どうせ失敗するから。

一人が良いよ、俺は。
亀がいればタンゴだって踊れるんだ。

pppppppppppppppppppppppppp

上司に絞られた次の日は下水道に潜る日だった。
俺は胴長を履いて下水道を歩く。
都市伝説に下水道に住むワニの話があるが実際のところワニはいない。そんな都市伝説を考えた奴は下水道を汚泥の淀みだと思っているんだろう。様々なゴミが流れつく淀み。でもそれは誤解だ。下水道は常に流れ続けている。
地下水脈のように街の下を流れる川なのだ。
雨が降っていたから、水量が多かった。こんな日は匂いが弱まる。
俺は下水道を歩く。
そういう仕事だ。
下水道をただ歩く。
変ったことがあったら報告する。

でも変わったことなんかない。
亀も冬眠から目覚めない。

突如俺の目の前に大きな水壁が立った。鮫だ。巨大な。コイツは人を食うんだ。俺は思わず身を避けた。間一髪だった。ヤツの大きな顎が俺の衣服をかすめた。サメの水しぶきが跳ね上がった。もう一回、奴は襲ってくる。俺は身構えた。

そんな事は起こらない。

pppppppppppppppppppppppppp

体から糞の匂いがする。
地下鉄に乗って隣に誰も座らない。
会社のシャワーを使って匂いを落としたハズなのに。
クソ。
職場の奴らも傍に寄り付かない。
今の俺はどんな匂い?
亀みたいな匂いだろうさ。
彼女が俺を見てしかめ面をした。


ppppppppppppppppppppppppppppp

彼女が夜道を歩いていた。
いつも通りの時間。
規則正しく彼女が歩いている。
生温い風が吹いている。
その風に乗って梅の香りが。

梅の香りの中で彼女の結わえた髪が跳ねる。小気味よいリズムで。踊るように。
ハニーサックルローズ。
ピアノのように。

慎ましい彼女の物語。平穏で何もない。それでいて満たされている。神聖な。

不図
彼女の足が止まった。
電信柱の影に男が立っていた
(恐らく男に声を掛けられた)
男と彼女の距離は目算して3メートル。

男の足がガニ股になる。
腕が胸の前で交差する。

でんでろでんでろ
でんでろでんでろ

男の性器が露わになった。

何故flasherたちはガニ股になるのだろう。

その時俺は呆気に取られていた。
大声を出そうかと思った。
でも俺はすっかりサイレントシネマの住人だった。街のドラマが余りにも無音の中に繰り返されていたから。俺にとって双眼鏡の向こう側は無音だった。テレビの音も調理鍋もセックスも。彼女の髪の梳る音も衣擦れも本を繰る音もルームライトが消える音も、寝息も、吐息も。俺はずっとサイレント映画を見ていたのだ。息をすることも忘れて。
彼女の前にいる男がガニ股になって、彼女が何も出来ずに恐怖しているのもやはりサイレント映画であった。

俺は彼女が悲鳴をあげるに違いないと思っていた。
だけど彼女は叫ばなかった。
恐怖のあまり叫ぶこともできなかった。
ガニ股と戦慄と双眼鏡の狭間で長い時間が過ぎた。数秒?数十秒?一分くらい?

「警察だ!」
俺は叫んだ
止まった時間が動き出した。男は乾いた笑いを固めて振り返った。そして彼女は悲鳴を上げた。
男は踵を返して走り出した。
俺は双眼鏡でそれを見ていた。

俺は双眼鏡で男の背中を追いかけた。
コートの裾をなびかせて男は走る。
ふくらはぎの筋肉が躍動する。
そのふくらはぎは狩りから逃げるしなやかな動物を思わせた。男の走る対流が生温い夜気を撹拌するような。
男のすえた臭いが漂うような。
そのまま男は公園の繁みへと消えた。

俺は彼女を見た。
彼女は泣いていた。

その日、彼女は本を読まなかった。

彼女の何時までも消えないルームライトを見ながら俺は双眼鏡の中の光景を思い出していた。

「警察だ」と叫んだ俺の声。
そして振り返った奴の顔。
あの時。
目が合ったんじゃないだろうか。

pppppppppppppppp

アパートの部屋に戻るとドアの前にダンボールが置かれていた。何だろうと腰を屈める。
雑にガムテープで綴られた上面。
ガムテープを剥せば難なく開く。
めくれ上がったガムテープに手を伸ばして止めた。
ダンボールから流れ出た液体が小さな筋を作っていた。黒い筋。
生臭い異臭が鼻をついた。
ドキリとして後ろにのけぞる。
ドアに字が書いてある。
「オマエだ」

と。
そんな妄想に震えながらアパートに着いたが、別段いつもと変わりは無かった。

亀は冬眠から目覚めない。

時間は夜中になっていた。
カーテンの隙間から差し込む青い光が部屋を染めていた。時折外を走る車のライトが青い影を右から左に走らせていた。

コツン。
窓が鳴った。

コツン。
窓が鳴った。

それから長い時間が過ぎて、変哲のない朝を迎えた。

俺は孤独だ。
朝が来て突如、俺は気付いてしまった。
俺はどうしようもなく孤独だ。

ppppppppppppp

昼を過ぎて上司も同僚も外に出て行った。
日に日に温かさが増していく。
曇天のような眠気が前頭葉に降りてきて、俺はそれを払うことができない。
キーボードを叩く。
誤ってエンターキーを押してしまった。
ハッとして顔を上げた。PCのディスプレイが上司の声で怒鳴った。
「また間違えたのか」

全身総毛立って冷や汗をかいた。

という夢。
そんな夢から醒めてハッと見上げたディスプレイに文字が入力される。

「オマエだ」

と、いう夢。

ベルが鳴った。
無人の社内にもう一度ベルが鳴った。
「書留です」
ドアの向こうから声が聞こえた。

郵便配達夫だ。確かタオル屋から先日の後始末の書類が届く筈になっていた。
まだ誰も戻ってきていなかった。
仕方なく応対した。

ドアを開けた途端に俺は。

全身が雷で打たれたかのような衝撃。
全身の血が凍りついた。
即ちこれは恐怖だった。

奴だ。
黒いコートの男。

「書留です。」

奴が言った。
狩から逃げるしなやかな動物のような体躯。
青白くて陰気な相貌。
あの喜色を浮かべて上気していた人物と到底同一とは思えない。
その差異が、男の異常性を際立たせる。その差異が、余計に真実を告げていた。

「サインを。」
奴は言った。

「誰の?」
と俺は訊いた。

「勿論、あんたの」
と奴は言った。

俺のサイン?
とんでもない。
俺の名前が分かってしまう。

「早くしてくれないかな。急いでるんだ。」
俺は奴の顔を見た。
急いでいる、そんな顔をしていた。

俺は上司の名前を書いた。
「ありがとう」

奴はドアを締めた。

締まったドアに向かって俺は全神経を集中して耳を研ぎ澄ませた。
奴が階段を降りていく。
あの足音で。

足音。
そして心臓の音。

遠ざかる足音と反対に俺の拍動は高まっていく。窓際のカーテンに隠れて俺は階下を覗いた。
俺の心臓の音以外。
何も聞こえない。色彩もない。
モノクロームのサイレント映画のような世界。

ビルからゆっくりと奴が出てきた。とてもゆっくりと。そして。
一顧だにもせず階下に停められた郵便バイクで奴は走り去った。
俺は安堵から深いため息を吐いた。

その時、上司が帰ってきた。
途端に色と音が日常に戻った。

「ああ疲れた」と上司は言った。

ppppppppppppppp

翌日。
寝不足気味の上司が愚痴をこぼしていた。
「変な風が吹いてて…全然眠れない…」

「どんな風ですか?」
と同僚の男が言った。
「窓をコツンコツンと叩くんだ。」と上司が言った。

数日後、上司は入院した。
神経を患ったんだ、そんな噂が流れた。

ppppppppppppp

彼女は。
先日の恐怖を同僚の男に相談していた。

日に日に二人は親密さを増していくようだった。

ある日の夜。
いつもよりかなり遅く帰宅した彼女は、千鳥足でタクシーを降りた。
ふらつく彼女を後から降りた同僚の男が支えた。
そのまま二人は彼女の部屋に入っていった。

信じられない。
何がって?
あの男は日中、下水道に潜っていたんだぜ。
下水道の中で糞まみれになってたんだ。
消えない悪臭が漂っているはずなのに。
彼女はソイツと飲み歩き、あまつさえ部屋に招き入れるんだ。
アイツには笑顔。
俺にはしかめ面。
一体どういう事なんだ。

ppppppppppppp

すっかり季節は春めいてきた。
春の陽気が街の空気を満たしている。
再び俺はオフィスに一人であった。
眠気と戦いながらキーボードを叩く。

そしてベルが鳴った。
二回。

奴だった。

「サインを」
奴は言った。

俺は無言で同僚の男の名前を書いた。

「どうも」と歯切れの悪い辛気臭い返事をして奴は階段を降りていった。

翌日、同僚の男が言った。
「変な風が吹いててね。」
「どんな?」
と彼女が言った。
「窓をコツンコツンと叩くんだ。」

上司の療養休暇のしわ寄せが全部同僚に撚っていた。日に日に同僚の精気は萎えていった。
幾度も同僚が愚痴をこぼす。
「眠れないんだ。風がうるさくて。」

神経を摩耗した同僚の男はある日、交通事故に遭って自宅療養となった。

その晩、俺はベッドの上で青い光を眺めていた。青く光る部屋が、影が、揺らめいている。

コツン
と窓が鳴った。

俺は青い光を眺めている。

コツン
と窓が鳴った。

俺は青い光を見ている。

双眼鏡が言った。
「外に出ないで良いのかい?」
今晩は満月だ。
赤い満月が東の空に浮かんでいる。

「外に出ようぜ」と双眼鏡が言った。
でも俺は返事をしない。

コツンと鳴った窓が言う。
「オマエだ」

そう。
次は
「オマエだ」

亀は冬眠している。

翌日のオフィスに奴は現れた。
ベルが鳴る。
小包を届けながら奴は言った。
「サインを。」
「分かった。」俺は言った。
そして俺の名前を書いた。

書かれた文字を指でなぞって奴は言った。
「ありがとう」

どういたしまして。決着をつけてやる。
オマエだ。今度はオマエの番だ。

アイツを懲らしめる方法は幾つかある。
通り掛かった所を狙って植木鉢を落としても良い。
通り道にピアノ線を張っても良い。
バイクから離れた隙にブレーキホースを切っても良い。
朝まで逡巡して俺は会社に欠勤の連絡をした。待ち伏せてやる。

奴は毎日同じルートを通る。

そのルートの中に役所の出先機関があって、奴は其処でバイクを降りて5分程離れる。
狙うのは奴がバイクから離れる其処しかない。
ブレーキワイヤーに切れ目を入れるんだ。

朝から何度も脳内練習をしている。
イメージは完璧だ。

朝から待ち続けて数時間。
正午近くに奴は現れた。
予定通り、バイクを降りて出先機関の中に入っていく。
俺は通行人のフリをしてバイクの側を通りかかった。其処でコンタクトレンズを落とした人のフリをしながらバイクのブレーキホースを手に取った。
切れ目を入れようとニッパーを当てる。

切れない。
俺が非力なのか予想外に硬い。
切ろうとする場所を変えたが同じだった。
硬い。

「どうしましたか」
振り向いた。
奴の辛気臭い顔が俺を見つめていた。
「コンタクトレンズを落としてしまって」
咄嗟に俺は答えた。
「それは大変だ」
奴は言った。
「一緒に探しましょう」
奴は地面に這いつくばった。
俺も這いつくばるしか無かった。
おかしな事になってしまった。
こんな事なら本当にコンタクトレンズを落としておけば良かった。

地面に這いつくばった俺達はさながら亀であった。チョップスティックに遊ばれる亀。
脳内をピアソラのリベルタンゴが流れる。

ありもしないコンタクトレンズを探しながら俺はすっかり困り果てた。まるで悪夢だ。

地面を這って、振り返り、
地面を這って、振り返り、
地面を這って、振り返り、

コンタクトレンズなんてある訳がない。

「ありましたよ」

と奴が言った。
奴が手にしていたそれは確かにコンタクトレンズだった。

「ありがとう」俺は言った。
「御礼をしないと」

「良いんですよ」奴は少し笑った。

缶コーヒーを。
買って俺は奴に渡した。
「ありがとう」
奴は言った。
人懐こい笑顔だった。

「こちらこそ」
俺は言った。
そのままバイクに跨がり奴は行ってしまった。
俺はそれを見送った。

コンタクトレンズだと思ったものは単なるプラスチックの破片だった。

その夜。
双眼鏡が言った。
「散歩に行こうぜ」 

俺は頷いた。

夜中には満月からプラス2の月が昇る予定だ。
ステレオではラロ・シフリンのオーケストラが「the wave」を奏でる。

泣き虫の小僧のようなピアノの音に押し流されて、俺は夜を歩いた。
人々が通り過ぎる。
俺は人々の顔を眺めていた。
初老の夫婦。ランニングマン。
犬の散歩。
酔い覚ましのオフィスワーカーたち。
ホームレス。
バスが通り過ぎる。
子どもがたくさん乗っていて、めいめい窓の外を眺めていた。

夜を歩く。徘徊する。
もうすぐ彼女が帰宅する時間だ。

俺はいつもの場所に来ていた。
「こんな事やめなくちゃ」
俺は言ってみた。
「お前が止めるのは勝手だけどさ」双眼鏡が言う。
「俺は覗くぜ」

「見たくないなら目をつぶってろよ」

双眼鏡は遠方に彼女を捉えていた。
電信柱の街灯に彼女の姿が浮かんで消える。
バタフライのように。

その歩く先に。
やはり奴は待ち構えていた。
季節に不釣り合いのコートを着て。

二百メートル。
百九十メートル。
この二人が出会うのはあの時以来だ。

俺が保証する。
なんせ毎日見ていたんだから。

奴は待っていたに違いない。ほとぼりが冷める頃頃合いを。
彼女に会うために。

チラリと奴の横顔が見えた。
日中に人懐こい顔で笑ったあの顔だった。
期待と興奮が張り付いて上気している。

彼女は歩く。
男は待つ。
それを俺は眺めている。
果たして。
二人は再会した。
電信柱の影の中で。
視線が交わった。
瞬間に、彼女は自分が遭遇したものが何者であるか理解した。

彼女は悲鳴をあげた。
悲鳴をあげて尚、動くことができなかった。

奴はコートの前開きに手をかける。

俺は。
走り出した。

彼女と、奴に向かって。
無我夢中だった。

「何をしているんだ」
と叫んだのは

遅れて歩いてきたあの同僚の男だった。
松葉杖をひいていた。
予想外の速さで同僚は駆け寄って、松葉杖で奴の腹を突いた。
頓狂な声をあげて奴は倒れた。
俺は直近に駆け寄っていた。

怯えた目つきの彼女。
それを庇う松葉杖の同僚。
倒れて下半身を剥き出しにした男。

そして一歩離れて、俺。
一体、俺はどうしたら良いんだ?、

「逃げろ」
と双眼鏡が叫んだ。
それは俺の声だった。
「逃げろ」
そして俺は倒れている奴を抱き起こす。

「早く」
奴の背中を押した。
そして一緒に俺たちは逃げ出した。

敗北感しかなかった。
彼女の傍にはあのいけすかない野郎がいる。怪我をしているにも関わらず。
俺が入り込む余地など全くない。
隣に走っている半裸の男の入り込む余地はもっとない。
その敗北感が消えるまで俺たちは走って、走って、疾走した。
耳の中にはやはりラロ・シフリンの泣き虫小僧みたいなピアノが流れていた。

「結婚を申し込むつもりだったんだ」
走りながら奴は言った。
馬鹿なんじゃないか。狂ってる。
性器を露わにした見ず知らずの男から求婚されて喜ぶ女など、人類史において皆無だ。
そう思ったが俺は息切れしてしまって喋る事ができなかった。

そして俺たちは海に着いた。
息を切らしながら俺たちは砂浜に倒れ込んだ。
心臓が破れるんじゃないかと思った。

俺は気付いた。
一緒に海に辿り着いたものの、俺たちは語れる言葉を殆ど持たない。

俺たちは黒い海を前にして顔を合わせた。
その沈黙の中で俺たちはある程度の事柄を察知した。

「変態だ」
俺は言った。
「お前は変態だ」

「変態で悪いか」
奴は言った。
悪いに決まってる。犯罪だ。

「俺は純粋なだけなんだ」
奴は言った。詭弁だ。
純粋な人間はみんな露出変態になるのか。お前の今の姿を写真に撮って世界中にばらまいてやる。純粋な姿を見てもらえばいい。

「それなら此処で前を開けろ」
俺は言った。ハンドモバイルを構えた。
写真に撮ってやる。お前の幕を開いてみせろ。

「止めてくれ」
奴は言った。
俺にも生活があるんだ。

その生活を放棄せねばならないのが犯罪なのだ。お前に全うな生活を送る権利などない。

「もうしないから。反省しているんだ。何度も止めようと思った。本当にもう止めるから。」

その言葉は心に秘めた俺の言葉でもあった。

「変態が」
俺は唾を吐き捨てた。

「お前だって人に言えない疚しいことがあるだろう」
奴が言った。

「そんなものない」
「嘘だ」

満月プラス2の月が昇り始めていた。
波の音は俺達の罵詈雑言をかき消した。
遠くの港が仄かに光って、波間に反射していた。

嘘だった。俺は虚偽の塊だった。疚しいことだらけだ。俺たちは同じなんだ。

「よし」と俺は立ち上がった。
「俺ももう止める」
そして双眼鏡を海に、力の限り投げ捨てた。
サラバ。
双眼鏡は波間に飛沫をあげて消えた。

が、何も捨てる事まで無いかもしれないと思い返し、俺は波間に双眼鏡を拾いにいった。

幸い双眼鏡はすぐ見つかった。
拾い上げると奴も、傍に立っていた。
俺達の下半身を波がくすぐる。

俺達は尚、無言だった。
俺達は波間に浮かぶ月を見ていた。
もうすぐ夜が明ける。

俺達の血潮は静かに、潮流のうねりに呼応していた。

pppppppppppppp

奴のバイクが公園にあるという話だったので、夜明けの公園にバイクを取りに行った。
400CCの黒いアメリカン。
奴がバイクに跨がり、俺も後ろにタンデムした。

夜明け空の中天に月が昇っている。
その月が俺を、俺たちを、彼女たちを。
街を見守っている。

バイクのエンジンが唸りをあげて始動した。
ビリビリとした振動が疲弊した細胞を震わせた。

バイクは走り出す。
俺達を乗せて。
市街路を抜けて、郊外に出てスピードを上げた。

俺達は旅に出るんだ。
バイクに乗って。

街の外へ。
地平線を目指して。

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end
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俺達は旅の途上。
ドライブインで缶コーヒーを買った。
プルタブを開くと充填された窒素が小気味良い音を立てた。

缶コーヒーを飲み干して
奴がコートを開くと
「訣」
の字が腹筋に書いてある。

真っ直ぐな道が何処までも続く。
道は前方に拓いている。
俺達は外へ、外へ進むんだ。

俺は空を見上げた。
良い天気だ。

(短編小説「アウトライダー」村崎懐炉)

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