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短編小説「ルーム」

少しだけ昔の話になるんだけど、あたしには恋人がいた。

勝手な男だった。付き合ってもいないのに勝手に部屋に上がりこみテレビを見たり、ソファに寝そべったりして自由気ままに暮らしていた。
猫みたいに気まぐれで見返りや愛を求めようとすると、ぷいと何処かに行ってしまう。
一月も経つとあたしたちが付き合っていることは既成事実となっていた。

愛の形はそれぞれで、彼との関係はあたしが思い描いていた愛とは違うものだった。彼はいわゆるEDで、あたしたちの間にセックスはなかった。でもその代わり彼は手のひらであたしの全身を愛撫した。少しの物足りなさは感じたものの、それなりにあたしたちは上手にやっていたし、あたしも悪い気はしなかった。

見かけによらず器用で美味しいご飯を作ってくれた。あたしはもしかしたら、こんな愛の形に憧れていたのかもしれない。

ある日、彼は不意に部屋を出てそのまま帰らなくなった。来たときと同じように付き合うとか別れるとかそんな形式的な儀礼は何もなく、突然いなくなってあたしたちの関係は終わった。

暫くの間、彼をロスしたことの喪失感に苛まれたが時間の経過とともに傷も癒えてあたしはまた極々普通の生活を送るようになった。むしろ、彼と暮らしていた時よりも穏やかな日々を過ごしていたかもしれない。

そのせいか、あたしは自分でもびっくりするほど深く眠るようになった。それまではどちらかと言えば不眠傾向で、眠れない夜が多かったが、ともすればいつまでも寝ていられる。

寝ていると時間が経つのを忘れる。

時間は温かで緩やかな川の流れのようだった。
あたしはその川の中で目をつぶり流れに身を晒していた。川の流れがあたしの隅々を洗い流すようだった。それはとても安穏としていたし心地良いことだった。

あたしの部屋には誰も来なくなった。
訪問客と言っても元々知り合いなんかいないから、部屋を訪れるのは郵便配達夫とかカルト教の勧誘とかそんな人たちくらいだったのだけど誰も来ない。

もしかしたら来てはいるのかもしれないが、あたしが深く眠りすぎて気付かないだけかもしれない。

なんて思っていたら、ある日あたしが眠っている間に、誰かが部屋に侵入していた。泥棒かと思ったがどうも違う。人相はそんなに悪くない。若い男。
怖くて物陰から隠れて見ていたが、その男は帰る素振りもない。むしろ、寝そべったり胡座をかいたりとくつろぎ出してしまったので、あたしは呆れた。
彼のことといい、こういうの流行っているのかしら。

あたしの部屋でどうするつもり、と段々あたしは腹が立って、男を追い出してしまった。誰もいないと思っていたのか男は驚いて、次いで恐怖の色を顔に浮かべ部屋を飛び出した。

次に現れたのは女だった。
やはり部屋でくつろいでいる。
こうなってしまってはあたしには何がなんだか分からない。
元カレがこの部屋は好きに泊まれると吹聴でもしているのか、それともそういう宗教なのか。
やっぱりあたしは女を追い出した。

誰もいなくなってあたしは安心してぐっすりと寝た。やはり眠ることは心地良いことだ。
昔の夢を見て微睡んで起きて、再び眠って、を繰り返した。
あたしはそうして、彼のことを思い返していた。

そして気付いた。あたしやっぱりあの男が好きだったんだ。
あたしを抱き締める彼の腕、そして顔を埋める胸。あたしの皮膚を撫でる彼の手のひら。ゴツゴツの指。
夢を見ながら無性に思慕の情が募る。

次に起きた時、また男がいた。
今度は足の不自由な老人だった。
性懲りもなく、とあたしは再び追い出そうとした。でもその老人は逃げなかった。ひどく驚いた様子であったが逃げない。

立ち上がって振り返りあたしの名前を呼んだ。

懐かしい声だ。夢の中で何度も反復した低い声。
老人はすっかり年を取って老いた彼だった。
猫みたいな気まぐれさで、彼はまたこの部屋に帰ってきたのだ。
彼は老いてあたしのことがもう見えないようだった。
でも、あたしがいることは分かるみたい。

彼と暮らした日々のことが陣風のような激烈さで追想された。あの温かくて幸福な日々!

彼がおじいちゃんでも良い。あたし幸せだ。
また彼と一緒に暮らせる。
あたしの胸は高鳴って、あたしは思わず泣いた。

あたしの嗅覚がもう一つの事実を告げる。
彼は恐らく死期が近い。
でも構わない。
彼が死ぬ朝にあたしも横にいてあげる。

こんなハッピーエンドってあるのね。