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感情を感じきってから考えよう?

自分にどんな感情があるかわかっていた。
自分の感情がなにに由来し、どう考え方を変え、どう整えるか考え整理してきた。
だから、自分をわかってたつもりだった。
全部じゃなくても、大体わかってたはずだった。

でも、
何も分かっていなかった
私が1番ワタシをわかってなかった。
誰よりワタシから遠かった。

それは自分がどう感じたかを認識しても
本当はなにも受け取っていなかったから。
認識した自分をそのまますぐに客観視することで、私は私をまるでモノのように扱っていたことに気づいた。

自分に懸命に向き合っているけど、本当に自分を大事にすることがよくわからなかった。
そんなことをちょっと書いていきたいです。

「ワタシ」はなぜ感じた?


日頃生活してく中で色々な気持ちが湧いてくる。
イライラ
悲しみ
情けなさ
怒髪天をつく感じ
いたたまれなさ
心躍る喜び
感極まり
さみしさ……etc

他にも意識に上ってこないような、自分で感じることを抑圧しているものもある。

抑圧したものはともかく、意識に上がってきた感情はよく拾い上げた。

例えば、市役所の職員の対応に苛立ったとき。
何に苛立ったのかと考えた。

その苛立ちの裏には、自分の中に「気が利く人間でなければならない」という幼少期からの思い込みがある、とわかった。
じゃあ思い込みを変えよう。

外界に対する感情は内在の反映。
私の中にひっかかるものがあるから、出来事や人に対して感情が呼応される。

……よし。

いや、よし。じゃないのである。
よく気づいたと言ってやりたいが、これではまだ不十分だと今ならわかる。

ワタシの叫びに耳を傾ける

その気づきが不十分な理由。
それは

苛立ち自体に目を向けていないこと。

そもそも感情だって無駄に湧いたりしないものだ。訳あって湧き出す。
(世界の何一つだって、存在理由に無駄なものは無い)

感情はワタシが握りしめて守っている価値観に触れたときに起こる。
だからこの時も、大切な想いを無視するな!というワタシからの叫びが苛立ちとなって現れたのだ。

気づいて。
想いが守られてないから苛立ってる。」

けれども私は、そんなワタシからのメッセージをスルーし、
「即ちその裏には何があるか」
について考えてきた。

だけどよく考えたら、その時産まれた「苛立ち」はその内省により昇華したわけではないのだ。
スルーされただけ。

スルーされた感情は癒されず、私の中に積もり積もっていく。まるで溶けない雪のように少しづつ、確実に。
それは何時しか堅牢たる壁となり、ある一瞬の出来事を境に崩壊する。
それは鬱であったり、適応障害だったり、何かしらのレベルにまで至る闇となる。

ワタシの声🟰感情
まずは私の中で慟哭しているワタシの声を目を逸らさずちゃんと聴かなければ、私はいつまで経ってもラクにはならない。

かつて湧きだしているのをふんだんに感じていただろう、「いや」「こうしたい」という「ワタシ」の気持ち。

環境や人間関係の中で叶わなくなって「こうあるべき」に囲い込まれて、誰かの「こうしたい」に全てを譲っていくうちに、私は感情を認識できなくなった。
当然、
「ワタシ」が懸命に伝えようとしている「なにか」を知る手立てもわからなくなってしまっていた。

最近になって多少は感情に気づくようになってきたものの、今もやはり寄り添うことができない。

そのことに、エンパシー講座の第3講座を受けて初めて気がついたのだ。

そして同時にどうすれば、もう一度「ワタシ」に寄り添えるのか、講座を受けて具体的なやり方の端切れを体感できたのだ。

「講師の相談をエンパシーを向けて聴く」という実践ワーク。
感情を吐き出しきってもらい、現実や事実、規範との葛藤の流れを経て、言葉の中から「大切にしている価値観」をみて、気づいてもらう過程を体験する、というもの。

このワークの最中に、
「この流れ自体が、自分に向ける意識の流れそのものなんだな」
と気づいた。

それが自己共感だった。

自己共感できずして、他者共感はできない

ワタシが大事に抱えている想いは、事実と大きく異なることがある。
事実は1つ。
真実は人の数だけある。
だから、人と人がすれ違うのは至って仕方ないことだと思う。

でも、だからこそ。

私自身がどんな価値観を持ち、何を大切にして、現実で起こる出来事をどのように受け取っているのか。
そこに思い至る流れが自分の中になければ、人に対しても本当の意味での共感はできないのだ。

なぜか。

「自分に共感を向ける」という意識の流れを体感する中で、
自分も他者も、それぞれの文化をもつ者同士で、互いに大事な価値観や想いの質感が違うのだと「体感する」から。

また、根本的に自分が整ってなければ、他者への共感どころではないと思う。

だから、感情を手がかりに、自分がどんな世界に住んでいるかをまず知らないと進まない。

自己共感のなかで、感情の奥にある思い込みに気づいて塗り替える、更新する。
それを重ねて私が望んできた生き方を現実にすることができるんだろうな、と感じる。

そしてエンパシー協会で出会った人達のように、自己の在りたい在り方を見据えて、変えていけるのだと思う。


そのために私は、まずワタシが叫ぶ感情を感じ切ることから始めたい。
悲しいなら悲しみきる。
楽しいならいっそ踊る。
怒りなら全てを涙に託す。


頭でなく心で感じ切ること。
感情に乗っ取られないこと。

感情はワタシの声ではあるけど、私自身ではない。感情も価値観も私そのものではない。
その基本的なスタンスを守りながら、自分に深く繋がる体験をよりしていきたい。

そこから少しづつ、互いに自身の価値観や想いに繋がる関係を築いていきたいと考えている。

今はまだ自分のことしか見えていないが、互いの在り方を大事に思えるような関係性を皆でひろげていくことを具体的に考えられるような自分になりたい。


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