じん

軽やかに、ふわっと。飛び上がるための整理。重い思いはおもいっきり抱きしめて、さようなら。

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最近の記事

解像度の低い愛

僕は解像度の低い「愛」という言葉が気になっている。最近、虚偽意識という言葉を知った。それは自分の参加している社会システムが原因で発生する不幸な部分を受け入れているときの意識らしい。みんな苦しいよね、仕方ないよね、こういう社会だしね。そう受け入れてしまう。それもあれも愛だよね。そうやって居心地の悪い愛をまるで「神様」への信仰のように、思考停止だ。虚偽意識。あの人は愛していたんだという。内輪で楽しんでいたのに社会に見つかりカテゴライズされ、自称詳しい人たちがフォロワーを従え批判す

    • 暫定的、今こうあるってだけだよ

      キアヌリーブスがインタビュアーに「死んだあとはどうなると思いますか」そう問われ、「言えるのは一つだけ、愛してくれている人が悲しむ」と返した。 アートとは資本主義からの脱却を試みるものだ、アートとは資本主義的でないものだ。倒れた花瓶から滴る水のように、ただそれがあるだけ。対してデザインは我々に根付いた思想。資本主義的に作り出された表現方法だ。そこから出たかった者たちが作り上げた「作品」をTシャツにするこの愚かさと滑稽さとユーモラスさに人の進化を感じる。神聖な神さえ、二次創作で遊

      • それはそれは、グッ!とくる言葉たち

        テンプル・グランディンという人がいる。動物学者、非虐待的な家畜施設の設計者、そして自閉症の診断を受けている。彼女は言う「時に自然は残酷だが、人はそうある必要がない」。同名の自伝的な映画がある。ぜひ機会があれば見てほしい。彼女が挑戦するときに色とりどり、様々な種類の扉が目の前に現れ意を決して開いていく、知らない世界へ飛び込む、「私という存在」を使いに行く。本当に勇気をもらえるたくさんの人にお勧めしたい映画だ。 フィッシュマンズのナイトクルージング。そこではこういう言葉が歌われ

        • 「見る」から始まる旅

          例えば好きなアーティストのよく聞く音楽が自分の好みであったり、本を読んでいて、引用されるのが自分の好きな作家であったり、つながりを意識できなくとも僕は無数のネットワークの一部となっている。川端康成の雪国は、ただのどうしようもない男がワンネス、仏教的に言うなら空を体感しているのを「見る」話だ。見ている側はその事象の中には入れない。渦中の人にはなれない。情けは人のためならずという。誰かにかけた情はめぐり巡って自分に返ってくるということわざ。観察していても結局自分を見ている。これだ

        解像度の低い愛

          結晶は花、音は鳥

          トーラスというものがある。語源はラテン語で円環を意味する。 こんな図形を言う。この図形の捉え方を変えるとフラワーオブライフになったり、マカバスターになったり、フラーレンになったり。全部同じエネルギー(情報)の流れを表している。関節、臓器ごとに働くし、細胞、地球、銀河、集団、種、動植物、粒子、ありとあらゆるものがこの図形のような流れの真ん中にいる。そしてそれぞれのエネルギーと共振しあっている。 これを自分の生活に当てはめて過ごすだけでだいぶと楽になるのだか。まだ知る人は少ない

          結晶は花、音は鳥

          あなたにあげる。

          愛している。積み上げられたそれを。作り上げた「私」を演じ切るために懸命に覚えた「物語」。ちゃんと添うように辻褄合わせの行動とセリフを放つ。ギターを弾いているとルノワールの描く水辺のような色彩を感じる。誰しもが「新しい物語」収集していて、塗り替えている。別に答えを求めているわけではないのだ。この空間の根源が「私は何か」という問いに始まったのなら「私を知るための他者」である。「私がどうありたいか」それを教えてくる外側だ。 韓国のカムジャ麺が好きで、時々冷凍のアサリと余った野菜を

          あなたにあげる。

          カーテンをしめた食器乾燥機が去った部屋で

          滝の裏からリゾートビーチを見ている、不規則で規則的な鳥の群れが過ぎていく、滝はごうごうとしているが音は聞こえない。確実な安心を感じる。いつか押し出されあの混沌の中でも無と有で遊びながら。 目まぐるしい。次から次へとイベントが起きる。ふと思い出したのが「私は私に必要なすべてを受け入れる」通勤の車の中で口に出して呟いた。それはそう思ったからで出来る気がしたからだ。 ツイッターを見ていてい想う。統計学のN=1だ。全部サンプル1だ。その人が思っていてその人に当てはまっただけのこと

          カーテンをしめた食器乾燥機が去った部屋で

          アイスコーヒーと山椒あられ

          台風の日だ。気圧がすごく低く頭部の圧がすごい。腸も胃も膨らむので内臓が張っている。人と自然のつながりを感じる。満月の日には交通事故が増えるという、満月だと身体が興奮しやすく疲労や睡眠不足になりやすい。見てわかるほどではなく本当に些細な変化なのだ。そこから意識散漫となり不注意や誤操作が生まれやすいらしい。 僕は造園土木会社で働いている。市から公園街路の管理を委託され年3度ほど草刈りをし年1回高低木剪定を行う。ただ草刈りは3度じゃ利かない。5回ほどしなければ環境を整えられない。

          アイスコーヒーと山椒あられ

          巡りのバトンは手渡されている

          部屋を掃除すると天然石たちが喜ぶ。キラキラしてささやいている。ブレスレットの順番も、相性もはっきりこうだと思う。そこに思考はなく、身体の反応に注視する感じだ。ここ数日、藤井風のまつりをよく聞く。お盆だということでいとこの姉ちゃんが来ている。そのおかげで掃除できた。良かった。8/9に大切な友人の子供が生まれた。良かった。その日からハートチャクラが開いていて世界と連動を実感している。豊かさを感じれば日が照り、欠落を創造すれば誰かから連絡が来る。本当に素晴らしくて黙っている。周りに

          巡りのバトンは手渡されている

          主にピンドラあついって話。

          プロメアというアニメ映画を見た。アニメクリエーターというのは見ているところが違うのだな。この映画はロボット、変身、消防、アクションと男の子が大好きな設定が盛りだくさん。しかし、ストーリーは正義と悪は表裏一体で立場によって違う。だからこそ、思ったならやりきってしまえ!という一つのテーマから答えまで用意されている。きっとヒーローごっこをするだろう子供と親が見るのだろう。どちらでも楽しめるようにチューニングされているし、僕みたいなアニメ好きにも「陰陽手を取り合ってグレンラガンだ!」

          主にピンドラあついって話。

          ゆるりとほどける。

          私という意識は複数あり、意識体は無限で、上から下を見、下から上を見る。科学は一種のバイブルだ。神々がどうして喧嘩するのだ?銀河を胸の内に持つ我は鏡として見つめる他者と私の代わりに私のできないことをやってくれている全他者に、どうあってもいいよ。たくさん喋るマインドにそうなんだねとなだめていく。 私は幾人かいる。今の意識を3次元と例えれば次元ごとにいるし、もっと細かくも存在するだろう。だから何といえば、「ここだけじゃない」ということ。そして矛盾するが「ここしかない」といことも。

          ゆるりとほどける。

          徒然。つれづれにもほどがある。

          瞼の裏にオーロラが揺れる。さっき食べたチョコの香りがする。肩から背中、鳩尾のあたりが緊張している。僕の持っている物語から外れると恐怖が発生する。次はちゃんと演じきれるように楔を打つ。この一連の流れはプログラムされている。ほかでもない、自分自身で。 D.A.N./NO MOONを聴いている。彼らのルーツは僕の聞いてきた音楽だとはっきりわかる。めちゃくちゃ好きだ。あなたの好きなもので好きなものを作りましたよという感じだ。僕はパエリアが好きだ、おかゆとちりめん山椒とみそ汁もいい、

          徒然。つれづれにもほどがある。

          脱ぐときに踏むステップ

          肉体を脱ぎ捨てる手段を「死」と呼んだ。依存からの喪失感を避けるために禁忌とした。結果としてそれはより強固に「生」の拠り所となった。この世にあり続けるために。重なり合ったハミングからどれを啄もうか。波が無限だと私の延長も無限で。つながりは絶てない。繊維の上で跳ねるカタチ。変化の再現などありもせず、意識が作り変える需要と作用。あまりも曖昧なために考えるのをやめてしまった。浴びた。虹を浴びた。そうやって光を選んだ。「どちら」と言おうがつらなりの1シーンだ。同じ場で踊ろうと抱き合おう

          脱ぐときに踏むステップ

          気づくとは何であろうか。

          日々、気づく。小さなものから大きなものまで、見つけ、感じて、「私」にはあったんだと腑に落ちる。この現象を気づきと呼んでいる。その「気づき」はいつも暫定的で道半ばだ。私とはどうであろうか、それを一つずつ見つける。人は一つ、人は全体の流れの一つ、歯車ではない、川を流れる泡のように、海ではねた飛沫のように、自由でしかない。自由以外ありえない。 あらゆるコンテンツをぼーっと眺めていて、「愛」の使い方はこれであってるのだろうかと良く思う。違和感がより強くなっていて、ふと愛を再定義した

          気づくとは何であろうか。

          灯。

          それは燃えていた。赤く、青く、大きく手を広げ燃えていた。必ずと言っていいほど花は色をこらえていた。短き瞬き、スクリーンの裏に隠したのは宇宙船の部品だった。水を分け与えよ。まだ見ぬ空に名を付けて遊ぶ子ら、やわらかく跳ねる声、小さいことがより分かりやすく示してくれる波。我々の自由を我々が知らないまま。それでも賛美される今日、この一瞬を浴びて。束の間の優しさ、空、そして人。 この世界は愛で出来ている。人の作り上げたさじ加減で良し悪しが決まっているのだけれど、良いことも悪いこともた

          目が覚めたら

          月や太陽と同じだと感じる。この呼吸を名付けることなかれと揺れる。意味づけの必要性を失いつつ、あるバランスでそれは成っている。わたしという集合になんの座標もなく波が砕ける、音が散っていく、火が霞む。曖昧で持続性のない夢だということ。 目が覚めたら、身体を見る。意識を奪われるような不調がないか、食事の消化はどうだろうかとか。肉体があるということで意識はそちらに引っ張られる。身体という物質を保つことで朝は眩しく、夜は優しく、驚き、楽しく、大きな渦を愛しく思う。 目が覚めたら、心

          目が覚めたら