トランス女性への「素朴な排除」「素朴な偏見」に向き合う:「女性の安全が脅かされる説」に思うこと

”「心が女性」と言えば身体が男性でも女湯や女子トイレに入れる。そんな社会は怖い。女性の安全が脅かされる。大浴場やトイレは、身体の性に合わせて利用するべきだ。”

最近、影響力の大きい芸能人からもこういった発信が相次いでいる。橋本愛さん、おかもとまりさんなど。
過激な反トランス思想とまではいかない。「反トランス」「思想」とまではいかない。
「ほんのりとした排除」「ほんのりとした偏見」

こういった意見を、私はすごく「素朴」だと感じる。

トランスジェンダーの人々が、日々どれだけ苦悩し、工夫し、シスジェンダーの人々に気を遣い、生活しているのか。
どれだけの時間を多目的トイレの待ち時間に費やし、内風呂のある宿を探し求めているか。
どんな風に、理想と現実のギャップに折り合いをつけながら、自身の性別移行の現状を見極め、可能な範囲内での自己実現をめざしているか。
こういった実態にあまりに無知で、想像力がなく、悲しいほど素朴だ。

”「心が女性」と言えば身体が男性でも女湯や女子トイレに入れる。”
そんな社会が来ることはないし、トランジェンダーも望んでいないと思う。

リアルを知らないまま、勝手に妄想して、勝手に怖がって、排除や偏見を社会に振りまいている。無自覚に。

中には「男女トイレや大衆浴場の入口で、マイナンバーカード(戸籍性情報が含まれている)をカードリーダーにタッチして入れるようにしたら解決だ」なんて、あまりに無知で、解像度がとんどもなく荒く、乱暴な意見も見かけた。

じゃあ、性別適合手術を受けて外性器は女性で胸もあるけれど、戸籍変更はまだで戸籍男性の人は、男湯に入ればいいんですか?
この「マイナンバーカードで解決マン」は、たぶんそこまで思考が及んでいない。
トランスジェンダーの実態がものすごく多様性であることを、知らない。もう、ほんとに、ただただ、知らないのだ。
あなたの街にも、隣にも、トランスジェンダーはいるのに。

日本では、マスコミが性同一性障害の解説で「心の性」「体の性」という言葉を多用してしまったことによって、「心の性」「体の性」という「非常にふんわりとした言葉」がなんとなく広がってしまっている。

「心の性」って何?あまりにも抽象的だ。
「体の性」って何?「生物学的性別」って何?
全人類、生物学的な性染色体検査を受けたことがあるんですか?そもそも「生物学的性別」も所詮人間が規定したもので、「絶対的なもの」ではない。

「生物学的性別は、男女の2つしかない」と素朴に信じている人(性別二元論信者)があまりに多すぎる。
実際には、生まれながらにDSD(性分化疾患)で男女の判定がつかない人もいる。
出生時に割り当てられる社会的性別(戸籍性)は、残念ながら「男/女」の2種類のみだ。DSDの子の親御さんの中には、幼き子どもの戸籍を「男/女」のどちらに割り振るか、苦悩する人もいる。

世の中にはノンバイナリー(性自認が男性でも女性でもない人、あるいは男性でも女性でもある人など)というアイデンティティを持つ人もいる。私もそうだ。男でも女でもない。性別二元論からはみ出した存在。社会からは見えていない存在。

立憲民主党が、同性婚の法律案として「異性又は同性の当事者間で婚姻が成立する」という文面を提案している。
同性婚を実現しようとする姿勢はもちろん評価するが、私はこの文面を見て、「やっぱり性別二元論からは抜け出せていないのだな、私達のことは見えてないんだな」と少し悲しくなった。

「異性又は同性」とわざわざ書く意味、ありますか?
「個人と個人の当事者間で婚姻が成立する」でいいじゃないですか。
ノンバイナリーの私には感覚的に「異性」も「同性」もいないので、この法案では結婚できないことになる。見えてない存在。悲しい。

マジョリティ側の人々は、性の多様性という現実に、無知すぎる。

みんな、トランス女性の話となると「大浴場」「トイレ」そして「性器」の話をしがたがる。
みんなそんなに、性器が大事なんですね。
みんな、友達の外性器を1人1人チェックして、「この人は女友達」「この人は男友達」と判定しているんですか?
そんなことないですよね。

なのに、トランスジェンダーに対しては、突然「外性器がどうなっているか」に関心が寄せられる。なんなら「SEXはどうやるの?」「恋愛対象は?」とプライベートな部分まで踏み込まれてしまう。

トランスジェンダーはまず性別移行するだけで、たくさんの精神力、費用、時間などを消耗する。
それに加えて、シスジェンダーの「素朴な偏見」「素朴な排除」にさらされ、抑圧される。
どう考えても、苦労が、多すぎる。

「自分が好きでそうなったんでしょ?」「自分で選んだ道でしょ?」と冷たく言い放つ人もいるが、少なくとも私は、正直、正直、ノンバイナリーになんて生まれたくなかった。
性別二元論がはびこる社会で、ノンバイナリーを貫いて生きることは、シンプルに、しんどい。
なれるもんならシスジェンダーとして生きたい。でも無理だった。女性として生きようとしたことも、男性として生きようとしたこともあるけど、無理だったんだ。無理なんだよ。

私は、「過激な反トランス思想」よりも「素朴な偏見」「素朴な排除的意見」の方が、よっぽど精神に堪える。
あまりにも素朴なのだ。

「排除」という自覚もおそらくない。(「女性の安全が脅かされる」の「女性」の中に「トランス女性を含んでいない」時点で、それは無意識の「排除」なんだけど。)

怖いのは、もし自分がシスジェンダーに生まれていて、自分のセクシュアリティについて何も深く考えずに生きる人間だったら、同じような「素朴な排除的意見」を素朴に発信していたかもれない。これは、すごく怖い。
もしマジョリティ側に生まれていたら、深い考えも想像力もなく、素朴に、「女性の安全が脅かされる」と発信していたかもしれない。

「ほんのりとした排除」「ほんのりとした偏見」を素朴に発信している人々は、誰かを傷つける意図はなく発信をしていると理解している。
でも、私達は傷ついている。こちらの苦労や工夫や気遣いを何も知らないくせに、トランス女性を性犯罪と結びつけて発信し、抑圧につなげることに対して、悲しい気持ちになっている。

私は対立構造が嫌いだ。
こういった意見はあまりに素朴だ。悪意はない。だからこそ、余計に、対立したくない。
こういった排除的意見に、立ち向かうのではなく、向き合いたい。

知ってほしい。私達のリアルを知ってほしい。
知った上で、多様な現実を知った上で、自身の意見を構築してほしいと願う。多様な現実はこれから出来上がるのではなく、既にあるものなのだ。

こういった「ほんのり排除」「ほんのり偏見」に向き合うことは、自分にとって、とてもとてもしんどい。
最前線で向き合っている方々には頭が上がらない。
自分は戦えない。向き合うのもしんどい。
大きな力にはなれないけれど、せめてこの葛藤を記事にすることで、少しでもトランスジェンダーやノンバイナリーのリアルが伝わればと思い、書きました。

今後しばらくは、「ほんのり排除」「ほんのり偏見」な情報からは距離を置こうと思います。
自分を大事に、生きていこう。
社会はいい方向に向かっていると、信じたい。

使用用途::不登校関連書籍の購入、学会遠征費など