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チッソ・水俣事件と石牟礼道子


1 事件の原因―その加害の真相と深層

石牟礼道子が生涯をかけて関わることになってしまった「水俣病」について触れておこう。しばらく俳句表現論から離れることになるが、石牟礼俳句の奥深くに横たわる重大要因であり、多角的に総括しておく必要がある。
「水俣病」は病気ではない。
「水俣病」事件は公害ではなく殺人事件である。
 一九七三年三月、水俣病訴訟判決、チッソの不法行為と賠償責任が確定。同年七月、補償協定書調印。一九八八年チッソ元社長、元工場長、刑事裁判で、業務上過失致死傷害罪として有罪確定(最高裁)。つまり法的にもチッソ元社長、元工場長らが刑事裁判において業務上過失致死傷害罪で有罪判決を受け、これが殺人事件であることが断定され、賠償責任が確定した事件である。
よって本稿では「水俣病」事件ではなく、以降、「チッソ・水俣事件」と呼ぶ。
またチッソという特定企業による広域無差別殺人事件・殺人未遂事件であるのみに留まらず、日本の近代の病理の一つである。
 チッソ・水俣事件はチッソ (日本窒素肥料・日本窒素・新日本窒素、チッソと社名を変更した)による近海(水俣湾から不知火海へと拡大)への環境汚染が発端。九州本島の南西の水俣地区にある元、日本窒素肥料 (後のチッソ)の水俣工場において、ビニールや合成繊維の原料となるアセトアルデヒドが戦前から生産されていた。その工程で発生した廃液、カーバイドなど「会社川」と呼ばれる工場を濠にように取り囲む川から、水俣湾の接岸港である百間港の、大きな潮止め装置のある排水門から、そのまま流し続けられた。排水に含まれる猛毒のメチル水銀は、触媒として使用された水銀剤が工程内で有機化したものである。その猛毒が海中でブランクトンから小魚、そして魚介類全般にと蓄積されていった。
豊かな海の幸によって暮しを支えてきた漁師家族、それを行商、のちは生協、スーパーなどで購入した近隣市民は、そうとも知らず、長期にわたってその魚介類を摂取し続けた。戦後の高度経済成長によって、その問題のアセトアルデヒドが増産されるに至り、排出されたメチル水銀の量も急増した。
そして一九五六年、ついに奇病という原因不明の「病気」の患者が公式に確認されるに至る。最初の被害者たちは、汚染魚をそれとは知らず毎日にように摂取し続けた漁業者とその家族たちである。その初期の原因が特定されない時代の劇症型の症状の衝撃から、奇病と呼ばれ、のちに「水俣病」と呼ばれるようになる「病気」に、そのイメージを固定させる弊害が、のちにこの闘争を困難にさせる原因になっている。軽度の症状でも日常の生活に支障が出る症状であるが、見た目には患者と見えない軽度の「水俣病患者」が「にせ患者」と見做され差別され、屈辱的な偏見で侮蔑される精神的な苦しみを、身体の苦しみの上に重ねさせられることになる。
無責任な風土病説も流布されるが、患者が海に接して暮らす漁業者であり、工場排水の流出拡散域と重なることから、だれもが常識的にも、その「病気」の原因が、工場排水による魚介類の汚染とその摂取が原因であると思っていた時代である。
患者発生から四年後には漁民による工場に対する大規模な抗議行動、国会議員の工場排水と被害地域の視察も行われたが、事件の大きさを考えれば、加害企業はもちろんのこと、行政による食品衛生法に基づく、周辺地域の健康調査が、直ちに実施されるべきであった。汚染が疑われる魚介類の摂取に警告を発令し、操業、販売、摂取を禁止し、そのことによって生活を脅かされる漁業者たちへの手厚い補償が実施されるべきであった。そのうちのどれ一つも実施されぬまま、被害は拡大していったのである。
チッソ側は工場排水と奇病の因果関係を否定し続けた。
だが熊本大学医学部研究班の分折、工場の附属病院のネコ実験を通じて、昭和三〇年代にはすでに、工場排水に含まれる工場内で副生したメチル水銀に由来する身体被害であることは明らかにになっていた。以上のことをもってしても、これは公害や、まして「病気」などではなく、犯人がはっきりした広域無差別殺人事件・殺人未遂事件以外のなにものでもないことが判る。
 政府が「水俣病」を「チッソによる公害」としたのは一九六八年、被害者の認定が始まるのがその翌年、チッソの賠償責任が一次訴訟判決で確定し、「公害」としての補償が始まったのが一九七三年である。
 私たちはいつでも、立ち止まってこのことを熟考するべきであろう。その犯罪としての責任と追及と、責任のとり方は問われなくていいのか。「責任」を「認める」行為とはなんなのか。「謝罪」とはどういうことなのか。被害者の一部が「許す」ということを「表明」し始めた言葉の、真の意味は何か。
そこには決して「許されざること」の正体が、明確に指し示されている。団体名の陰で逃げ続けている「個人」の「責任」と、すべての日本人の内なる「加害者性」に向けて、これ以上になく鋭い問いの刃が突き付けられている。賠償金、補償金の支給という制度の後ろで、そんな大事なことが問われないまま、「福島」の原発の被害のような事件が「公害」的処理法で、やり過ごされようとしている。
その近代以降、現代に至る日本の救いがたい「病」が指し示されていたのだ。前近代を不合理として切り捨て、国力向上という合〈目的〉性だけを優先し、自然とそこに根差して生きる命という「母殺し」の論理によって、長期にわたって励行された人類史的錯誤の歴史に、異議申し立てしたのがチッソ・水俣事件に対峙した、被害者漁師、その精神的支援者たち、そしてその精神的支柱の役割を担っていたのが、石牟礼道子の文学である。私たち一人ひとりの、命と向き合う姿勢自身を問うた運動だった。  
チッソ・水俣事件に対峙した運動を、被害の賠償問題に矮小化してはならない。『苦海浄土』はそのことを独創的な文学的筆致で描きだし、可視化したのである。
石牟礼の行動と文学表現がなければ、そこに横たわる現代社会の病は可視化されなかったはずだ。そこに石牟礼俳句の根源があるのだ。

2 被害者たちの闘争上の困難

 水俣事件を問うとき、「個人」の在り方の非対称性が被害者を苦しめている。
 被害者は個人である。それに対して加害者は企業という団体であり、その犯罪を実際に行った個人たちはその団体名で、個人としての自覚や責任感が希薄である。
 その犯罪の発生を初期の段階で認知しながら放置した加害者には市町村、県、国という団体がある。当時、この問題に直接触れる立場にあり、市民たちの生命の危機を我が事のように捉え、真摯に迅速に対策を講じるべきであった責任を放棄していた団体の中の「個人」たちも、その市町村、県、国という団体名の後ろに隠されて、個人としての自覚や責任感が希薄である。
 被害者が訴訟活動をするとき、個人として行うしかないが、相手は個人の顔をしていない。仕事として上から目線で被害者に威圧的な態度を取る。そんなことが許されるのは、その仕事をしている「個人」として、一人ひとりの命の平等性と尊さに対する畏怖心の欠片もない、名無しの公務員という肩書仕事人だからだ。
 被害者たちを屈辱的な思いにさせ、空しく、絶望的な境地に追いやり、心身とも疲労困憊させるのは、企業、役所という名で仕事をする非人間的で「個人性」を喪失した者たちを相手に闘い続けることの、言いようもない徒労感と失望感だった。

3 チッソ・水俣事件の偏見・差別・侮辱

 メチル水銀(有機水銀)は人間の身体機能の毒物を遮る関門や障壁を越えて、脳や妊婦の場合、その胎盤の中まで侵入して胎児にも達するため、健康や生命への影響は計り知れない。
急性劇症患者(特定の時期に集中的に高濃度のメチル水銀を摂取した患者)は、著しい運動失調、言語障害に陥り、痙攣発作を繰り返して死に至る。私の母方の親戚の漁師はこれに当たる。胎児の場合は生まれながらにして罹患した不自由な身体で誕生する。中には死産で、全身黒っぽい赤ちゃんだったと親戚から聞いたことがある。
この初期の劇症患者とは別に、多様な症状の患者が大量に存在する。症状の度合や発現のかたちが多様で、自らの神経症状を「水俣病」だと気づかない人々も多かった。
代表的な症例としては頭痛、めまい、立ちくらみ、からすまがり、不眠、感覚麻璋などがある。私にも耳鳴りを伴う恒常的な頭痛、下肢の原因不明の頻々な痙攣、からすまがり、足先、指先の痺れと感覚の鈍化などの症状がある。母と兄弟姉妹にも似たような症状があった。
劇症患者や胎児性患者が水俣病患者だという偏った認識が流布していた時代、チッソや漁協、近隣住民の目などを意識して認定申請をためらう人がいる。チッソという企業城下町である雰囲気の中、県、国の役所の対応にも、傍目に症状が分かりにくいこともあり、末認定患者は「ニセ患者」という偏見、中傷とも闘わねばならなかった。
苦労として「認定」を勝ち取り「補償金」を貰った患者たちは「奇病分限者」と白眼蔑視され続けた。(※注「分限者」とは金持ちのこと)
その困難さを手に取るように教えてくれている著書がある。のちに「行政不服審査申請」という形の闘争を展開して、その体験をのべた緒方正実氏の『水俣―女島の海生きる』という書である。熊本県と認定審査会が当たり前のように行なってきた認定審査の、偏見に満ちた差別的な手続きに、素朴な疑問を感じ、こみ上げる怒りを封印して辛抱強く県行政を問いただした。その差別的な内容とは次のようなものだ。
●小児性水俣病を判断するとして小学校の成績証明書を提出させ、本人の了解なしに別手続きで使用した。
●申請者やその家族に定職に就いていないことを「ブラプラ」と差別的に表記していた。
●水俣病ではないと断定する理由として「その視野狭窄は本人の人格に由来する」と答弁した。
つまり、この男は知能が低く、ナマケモノで、嘘つきであると決めてかかっている「審査」である。
これは緒方氏だけに対してのことではない。申請者すべてに人に対してこんな侮辱的な対応が、当たり前のようにまかり通っていたのだ。

4 「認定」「補償」「救済」という加害責任の曖昧化

「水俣病」の「認定」は「公害健康被害の補償等に関する法律」(以下、「公健法」と記述)により、熊本・鹿児島県の知事の指示により、各科の医師で構成された「認定審査会」の判断に基づいて行なわれる。この「審査会」そのものが、「水俣病による感覚障害か否かを判別できない」「症状の組み合わせ乏しく認定相当とは言えない」などという理由で認定数を著しく絞り込だ。
水俣市や芦北町、そして対岸の島々など、不知火海のおよそ南半分の沿岸地域に、「水俣病とは認定されないが、他に原因を考えられない感覚障害」者が放置され続けた。
一九七三年には、水俣病第一次訴訟判決とチッソ本社交渉を経て、認定患者への補償の枠組みが(水俣病補償)の「協定書」としで確立する。
補償金支給の資金的な支援は日本興業銀行が行っていたが、銀行側は予め認定患者一三〇〇人が限度という内々の基準を設けていたらしく、認定患者が一三〇〇人に達した一九七〇年代の終わり頃、チッソは倒産の危機に直面したと主張し始める。

政府はそのタイミングを見計らっていたかのように、熊本県債による間接的なチッソ支援の方式を設け、「水俣病判断条件」を限定してかかり、認定基準そのものを厳しくしていった。官僚たちの思考では、患者数を絞り込むことは財務上の至上命題であることが常識なのである。
それでも被害者たちの一部は挫けることなく訴訟や直接交渉を続けていった。
一九九五年、村山内閣において、「水俣病ではないが類似の症状を持つ人々」を「国が仲介者となってチッソと和解させる」という第一次政洽決着(別略称「政治解決」または「政府解決策」)が行われる。
この時、一万人の未認定患者が、解決金二六〇万円での決着を断腸の思いで受け入れた。社会党が主体の政権以外の、将来のどんな政権でもこれ以上の「救済」はないだろうという諦めと絶望感による受け入れだった側面がある。

5 不当な「棄却処分」との闘いの始まり

 それでも「決着」を受け入れられない患者がいた。
 その患者たちの闘いは弁護人任せの法廷闘争ではなく、行政訴訟という新たな闘いの形を取ることになってゆく。もちろん平行して裁判という法廷闘争で闘い続けた人もいた。「水俣病認定」をめぐる行敢不服審査では、この時代に先行して、川本輝夫氏、佐藤ヤエ氏らが差し戻し採決経て認定を得ているが、原処分が否定されて差し戻ざれる率は四〇年余で三パーセントに満たないという有様だった。
 その代表的な人が、先述した緒方正実氏である。
緒方正実氏は熊本県知事に対して水俣病認定を申請。多項目にわたる検診と、認定審査会の審査を経て著者に示されたのは「棄却」処分だった。叔父の緒方正人(正実氏に先行して闘争を続けた人だが、その闘争の過程で、この闘争が抱える根源的な問題に突き当たり、別の形でこの闘争の意味を世に問う決意をして、訴訟を取り下げた人である)さんや、他の支援者たちに支えられ、認定申隋を再度・再々度おこないつつ、「行政不服審査請求」という形態の闘争に踏み入れてゆく。
それは行政から下された処分に納得できない人が、処分庁(熊本県)に異議を申し立て、次にその上級庁(環境省外局の公害髄康披害補償不服審査会)に処分の差し戻しを命ずるよう求める闘争で、行致内部で行なわれるミニ栽判のような手続きである。
 結果的に著者は二回目の棄却処分をめぐる行敢不服審査で国の不服審査会から「原処分破棄・差戻し」の裁決を勝ち取り、それを経て熊本県知事の「水俣病」認定という稀有な逆転を勝ち取る。
 その過程で正実氏が体験した熊本県の高圧的で偏見に満ちた差別的な態度と、それによって受けた氏の屈辱については先に紹介した通りである。
 
6 関西訴訟という逆転勝利―変わらない官僚の意識

行政責任や病像定義も曖昧な和解決着を批判し、国家賠償訴訟を唯一継続した「チッソ水俣病関西訴訟団」が、国と熊本県の「水俣病」放置拡大責任を認め「水俣病」像をも改めさせる判決を碓定させた。
 それが緒方正実氏の逆転勝利、溝口氏の最高裁逆転認定(二〇一三年)や、その後に続く人々の大きな励みとなった。
 振り返れば、「公健法」よる認定患者は熊本・鹿児島両県で著者を含めて約二三〇〇人、村山内閣の「第一次政治決着」での解決金該当者が約一万人、そして「特措法和解(第二次決着)」に申し出た人が六万五千。
「能う限りの救済」を標榜した「特措法(二〇〇九年制定)だが、締切を急いだことや地域一年齢で線引きしたこと等により、救済から外される人々がたくさんいた。それがその後も続いた新たな提訴を生むことになっていった。
 だが官僚たちの意識は変わることがなかった。
関西訴訟において、それまでの認定基準の考え方自身の問題移転が厳しく裁かれた後も、「認定基準を見直す必要はない」という姿勢のままであり、被害者たちを激怒させている。
「自分たちがやっていることが批判され、否定されたのに、なんも変える必要のなかちいうとは、どういう神経しとるがやろ。人間の血の通うとらんとばいね」
あるテレビのインタビューに水俣弁でそう応えていた被害者たちの言葉が忘れられない。

7 それぞれの闘い方で命の意味を問うた被害者たち

公式確認から半世紀をにわたるチッソ・水俣事件の被害者たちの闘いは、一人ひとりの被害者が自分自身の闘い方で個別的に展開していった。
その魁的存在が川本輝夫氏。
そして、途中で訴訟闘争から下りて、「チッソは私であった」という言葉に示されるようなユニークな活動を展開した緒方正人氏。
そしてその甥で行政不服審査申請というミニ法廷で、自分自身の言葉で訴え、人としての誠意ある真摯な対応を求めた緒方正実氏。
この三人、いや、他の人たちの闘い方に共通しているのは、加害者を断罪し非難するのではなく、その個人としての人間性に訴えかけたことだ。
企業人とか、県庁職員とか、国政の官僚とか、組織の名前の陰で行方をくらます個人に向けて、一人ひとりが「個人」として、この命を軽んじ、生きる権利をないがしろにする事件と、その本質に真摯に向き合うことを促し続けたのだ。
それがこのチッソ・水俣事件史の、他のいかなる闘争とも違う、特筆すべき特徴であったと言えるだろう。
 

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