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高野公一氏ご逝去―最後の著書『風の中へ』『河童老人俳句問答』をめぐって

 

〇 高野公一氏の俳業の軌跡

 高野公一氏の突然の訃報を受けて呆然としている。
 わたくしごとだが、二〇一九年(令和元年)第三九回現代俳句評論賞に応募した、わたくしの石牟礼道子俳句論を、いちばんにご推挙されたのが高野氏で、その力説に他の選考委員の方が賛同されて受賞が決まったと、後日聞いている。
 俳句評論の世界で今日のわたくしが在るのは、このときの高野公一氏のご推挙のおかけであり、いくら感謝してもしきれない御恩を感じている。

  高野氏は昭和十五年、新潟県上越市生まれで、俳誌「山河」同人。
現代俳句協会に属し、現代俳句評論賞選考委員としても活躍された。

 句集に『六度六分』『アンダンテ』『羽のある亀』。
平成二七年、第三五回現代俳句評論賞、同二九年、第二回ドナルド・キーン賞優秀賞受賞。
 どちらも芭蕉の「おくの細道」論によってである。
 これは氏のライフワークでもあり、優れた俳句文学論だった。

 その二つを纏めて上梓された『芭蕉の天地「おくの細道」のその奥』という著書については、拙ブログで紹介している。  https://note.com/muratatu/n/n36c2c3b784c3  
 〈俳諧という旅の覚醒の喜び ――髙野公一著『芭蕉の天地 「おくのほそ道」のその奥』をめぐって〉
 また最後の句集『羽のある亀』についても、拙ブログで紹介している。 https://note.com/muratatu/n/necf630956efc  
〈静かに定まる思念―高野公一句集『羽のある亀』〉
 是非、ご一読ください。

 今年(二〇二三年)の四月に、高野公一氏から随筆『風の中へ』と、その別冊の『河童老人俳句問答』(山河叢書35 タント企画 2023年3月31刊)を拝受し、じっくり拝読して、感想文をお送りしますという礼状を差し上げて、二ヶ月後の、あまりにも突然のご逝去の報である。

こうして書き上げた感想文を、もう高野公一氏に読んではいただけないことが、悔やまれる。

〇 『風の中へ』

『風の中へ』の「あとがき」で、高野氏はこう述べている。

   ※

サラリーマンを卒業してから万年書生のようにあちこちに書き散ら した雑文を捨てるに捨てかねて集めたものである。タイトル『風の中へ』は四十数年の会社人間から心を解き放つ努力をして、新たなものに、そしてそれは自分にとって心地よい時間に違いないと思って、その方角に歩もうとした時の気分を表している。すなわち、高原の風へ、海の風へ、俳句・俳諧の風の吹くところへ。副題の『雑談集』は芭蕉の高弟、宝井其角の編著になる『雑談集』(ぞうたんしゅう)に倣った。

  ※

その中から、特に強く印象に残った〈「墓島」まで〉という随筆を紹介する。

前半は高野氏の幼少期の記憶を辿る話で、実父は海の向こうの知らない島で戦死されている。
 母は再婚し、義父となった人のことを「父」とは呼ばなかったという屈折した思い。その義父は高野氏を大学まで出してくれた。
 大人になってから、実父の死の真相ついて調べるうちに、死因と場所が判明し、定年退職後、同じ場所で戦死した人の遺族たちと、その島を訪問する旅が実現する。
 その結びの部分を以下に摘録する。

     ※

(略)

何か待ちきれない思いの元戦友、遺族の総勢十七名が集まり、七泊 八日の旅となった。ニューギニアのポートモレスビーまでは飛行機で飛び、小さな島を二つ船で渡り、ようやくブーゲンビル島の北の港に 辿りつく。そこからは悪路をぼろ車で走り、川は浅瀬を渡り、打ち捨てられた日本軍の戦車や飛行機を目にしながらひたすら南下し、父がいたムグワイ村のマイカという名の兵站病院と埋葬地の跡地に辿り着くことが出来た。私は家族の写真や父が死んだ後の家族の出来事を書いた「報告書」を持参した。母の再婚、養父の死、母の死、私自身の家族、娘や息子のこと、父が死んでから身辺に起ったことの報告書だった。

マイカの埋没地では読経や献花を行い、日本から持参した日本酒と煙草を供えた。

椰子の林とその上にある南国の屈託のない空、遠くには山が見え た。ブイン山だと元兵士がその名を教えてくれた。 低いが富士山型の やさしい山だった。 父の戦友が言っていた 「桃太郎農園」という芋畑はだいぶ離れたところのようだった。補給船が途絶え、敵軍に袋の鼠にされ、芋畑も食い尽くし、兵隊は毎日のように死んでいった。父にはあと半年の終戦を待つ体力が残っていなかった。

ガダルカナルの後、ここでも激戦が繰り広げられたが、連合軍は飛び石で北上し、ブーゲンビル島は敵圏内の奥深く置き去りにされた。太平洋戦記を読めば、当時の戦況の全体像がよく見える。しかし、父たち一線の兵士は大きな動きは何も知らずに、ただ空しく次に訪れる運命を待っていたのであろう。

ひととき十五万六千人近くいた将兵は終戦時には四万になっていた。その三分の一は戦死、三分の二は戦病死であるという。四国くらいの大きさで、バイオリンの形をしたこの島は、それ自体が一つの墓となった。生き残った人々はこの島を「墓島」と呼んだ。

その夜、小さな集まりがあったが、私は宿舎に残り、日本から持ってきた日本酒の残りを飲んでいた。少し酔いが回ると、父と共に汲み かわしているような快い気分になって来た。私は『身の内の父を酔わせる新酒かな」という一句をノートに書きつけた。

これまでの自分の人生を振り返ってみるに「旅行」は数え切れないほどし、ましてや、仕事での「出張」は世界各地に及んでいる。しかし「旅」と呼んで相応しいものは数少ない。

少年から老年にかけての、日常生活の奥で流れ続けた水脈を断続的に辿る時間、それを旅と呼んでよいかどうか分からない。しかし、自分の実感から言えば、父の埋葬地で新酒を飲みかわした時、私の「父への旅」が終わり、新たに「父との旅」が始まったような気がする。 父のそばには母も養父もいる。みんな気持ちを楽にして一緒にいる。

   ※

戦死という抽象的なことばの中に封じ込められている父の心象。

実感として捉えきれない父の心的不在・心的空白が、ある種の飢餓感のように永年にわたって遺族の心を捉えて離さないことが、淡々と描かれている。

わたくしごとだが、わたしの父は従軍後生還出来た満州引揚げ兵であり、父の言葉で従軍体験の一部を聞くことができた。

それができない戦死者の、遺族の思いについて無知なわたしたち戦後日本人の、国民としての精神的空洞のありようが心に刻まれる。

ここで語られていることはそういう重大な戦後精神史の問題でもある。  

その叙述には過不足がなく、下手に感想を述べると原文の味わいを損ないかねないので、これ以上の言及を躊躇わせる文章である。

高野氏の俳業の精神的背景を感じるに充分な随筆である。

今ごろ、仙境にて父母、義父とお酒を酌み交わされているだろうか。

 

〇 『河童老人俳句問答』

別冊『河童老人俳句問答』は、最も交流の深かった親友が、高野氏の句集から一句ずつ選び、葉書一枚にその感想をしたため、高野に送られ、高野の氏がまたその感想を含む俳句創作の背景などを、一句一章というスタイルで編集したものだ。俳句の自句自解の書というものはたくさんあるが、まず他者の視座を呼び込んでから自解するという、この斬新な編集スタイルは活気的で、その複眼的視座の提示のおかげで、自句自解にありがちな「ひとりよがり」や、ある種の閉塞感から見事に開放された、複眼的俳句鑑賞論になっている点に敬服した。

全章、面白くて興味が尽きないが、ここでは特に印象に残った章を抜粋して紹介する。

   

石抱いて蜻蛉の帰る洪積世

 蜻蛉の化石を見たのですか? 不思議なイメージだけど、心に残る 一句です。普通の句会だと句評そのものが批判されたりしてわずらわしいけど、葉書での句評は気楽ですね。自分の句評がまったく的外れ だったとしても、作者は黙って抱きとめてくれるだろうから。今までいろいろの方から句集をもらったけど、ほとんど真剣な気持ちでは読まなかった。『アンダンテ』で初めて句集の愉しみ方が分かってきた感じです。

(ホジャ) ※ 注 これが高野氏の大親友の方の筆名である。

 子どもの頃、蜻蛉は喜びの最大の源泉だったと思う。ヤンマ、オニ ヤンマ、ギン、チャン、ムギワラそれにシオカラトンボなどなど。

蜻蛉が石に止まってじっとしている。眠っているように動かない。そのまま眠り続けて見たこともない昔の時間に帰って行くようだ。僕たちがそこからやって来たところ。それからずっと眠り続け、目が覚めたらこの世とか。そして又、眠りの時間に戻ってゆく。 蜻蛉というのは、おもしろいネ。原初的、根源的。小さい時、トンボが来ると、ドキドキした。自分に会っていたのかも知れないネ。俳句は自分でも 良く分からないことを書くのだろうか。分からないことを分かったように書くとつまらなくなる。(公一)

   ※

お二人の「感想」の陳述で、わたくしにもう付け加えることはないように思われるが、少しだけ私見を述べさせていただく。

「洪積世」とは地質時代の区分の一つで、新生代第四紀に属し、約一七〇万年前から一万年前までをいう。地球上の気温の高低が顕著で、四回の氷期と三回の間氷期が訪れ、氷河時代と呼ばれる。マンモスなどの哺乳類が栄え、はじめて人類が出現した。現在では、一般に更新世の語が用いられる。

つまり人類出現の「紀」なのである。上五の「石抱いて」という「石」という言葉の斡旋で堆積した時間の厚みを、作者が少年期に「蜻蛉」なる生き物との出会いにときめいた、初々しい原初的感覚の中に置いた表現である。そのことによって、蜻蛉やわたしたち人類という命の、原初的感覚を一句で立ち上らせている。

ここに、高野氏の「文学俳句」としての視座と方法論がうかがえる。

   ※

小春日や嬰にまなざしといえるもの 

僕はショッピング モールに行って、親に連れられてくる子供たちの姿を見るのが好きです。ムズがってる子、ダダをこねてる子、泣き わめいている子、上機嫌の子、何か心の中にドラマを持っていて体をしきりに動かす子、考え深そうな子。僕は子供たちの様子を眺めて楽しんでるだけですが、「まなざし」という表現はよく分かります。 というか、自分がまなざしを失いつつあるのではないかと、自省する こともあります。 (ホジャ) 

「自分がまなざしを失いつつある」という独白にはどきりとさせられます。上から目線は論外としても、「見る」、「見つめる」、「見定める」 目の動きはあっても、〝まなざしを放つ〟のは美しい風景に一瞬没我するときぐらいかもしれませんネ。嬰児のまなざしは全世界に対して全幅の信頼を置く、犯しがたい高貴さがあります。目が見え、世界が 見え、大人になり、まなざしが失われていく。そんなことが見える歳になったということかな。 (公一)

   ※

「〈わたし〉は他者の眼差しによって〈存在〉となる」という意味のことを哲学的に述べたのはサルトルだが、「俳句はまなざしの文学である」とでもおっしゃりそうな高野氏の声が聞こえるような随想文である。
 その「まなざしの喪失」、現代文明的な問題も包摂する視座である。 

以上、高野氏の最後の著作物となった二書の紹介をもって、高野氏への追悼のことばといたします。 

慎んで高野公一氏のご冥福をお祈り申し上げます。

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