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「自動車の社会的費用」

広島や長崎,富山,高知といった街を訪れると,いまでも路面電車が都市交通のかなめとなっています.観光客にも使いやすくてとても便利な存在です.むかしは全国津々浦々にあった路面電車は,しかし1970年代に都市の混雑緩和のためにつぎつぎと廃止されていきました.

ひさしぶりに宇沢弘文「自動車の社会的費用」をパラパラと読んでいたのですが,都市の混雑緩和のために1970年代に全国にあった路面電車がつぎつぎと廃止されたことに触れて,「(路面電車は)低所得者層のみならず,老人,子ども,身体障害者などが自由に利用でき,実質的所得分配の安定性に寄与していた」と書いてありました.

当時モータリゼーションとよばれた自動車の普及は,農村での生活向上など望ましい面もありました.しかし車依存度が高まると,鉄道やバスなど公共交通網が赤字になって廃止されるようになり,やはり低所得者層や老人,子どもといった自動車を運転できない弱者がもっとも被害を受けることになります.都市農村とも車の普及がもたらす社会的不安定性は大きいのですが,とくに車がないと生活ができなくなる地方において大きな問題となります.

宇沢氏は,モータリゼーションが進んだ社会では車をもつ者ともたない者の生活格差が大きくなるため,老人などの弱者に配慮した都市設計の重要性を指摘しました.この宇沢氏の提言は行政にもある一定程度の影響を与えたはずです.しかし「社会的費用」にあてるべきだった自動車税やガソリン税は,結局のところ,全国の道路整備のみに重点的に費やされたという残念な歴史的事実があります.政治家による地元への利益誘導という近視眼的な施策にねじまげられてしまったのです.

高齢者が運転しておこす交通事故がときに社会をにぎわせ,そのたびに高齢者の免許返納が話題になります.しかし現代社会は車を前提としたかたちでつくられていて,車がないと買い物も仕事もなにもできず,きわめて生きづらいようにできあがっています.この問題は高齢者の単なるわがままといった個人の責任ではなく,運転をやめた瞬間に社会的弱者に転落するという社会に構造的に存在する問題によるものなのです.

免許を返納した瞬間,そのひとは社会的弱者に転落します.だから高齢者の免許返納は進みません.自動車の普及は,一見,生活を便利で豊かにするようにみえますが,車を運転しない少数派のひとびとに一方的に負担を転化しています.人間を強者と弱者のふたつに分裂させ,あらたな階層分化をつくりだしています.実はこのことは50年ちかく前に宇沢氏がすでに予測し,対策の必要性を指摘していたにもかかわらず,車をもたない者にも住みやすい地方の町づくりを政治は怠ってきたのです.

宇沢氏が問題提起した70年代は,高速道路が開通していたのはまだ東名,名神,首都高環状線くらいで,中央すら東名と接続する前です.地方のインフラはこれからという時代でした.急速な自動車普及による交通事故や渋滞,騒音,大気汚染といった問題がおきた時代です.車依存型の郊外大規模ショッピングモールはいまでは日本の津々浦々にありますが,宇沢氏の考えていたのはたとえば町のなかに商職住をどのように配置するかでした.

街中の車立入りを禁止し,住民の足としてトラムやバスをおき,幹線道路を整備して産業はそこに配置したりする街づくりは欧州でよくみかけるものですが,日本でもおなじような街づくりが議論されました.近年は温暖化にたいするSDGsの観点からも公共交通機関の整備が見直されています.また現存の自動車のありかたを根本から考え直し,「車は弱者のもの」(中公新書)というコンセプトでツボ(坪)車が提案され,実際に設計されたりもしました.

「弱者に配慮した都市設計」とはそういった意味です.しかし残念ながら現実の歴史はそうなりませんでした.そのいちばんの原因は自動車産業を国家振興の中心においた政治です.高付加価値で高収益の自動車をどんどん売りつづけた結果,いまのような自動車社会ができあがり,結果として高齢者の車の運転の問題が顕在化したのです.

もちろん現時点では高齢者の免許更新を厳しくするとか,交通費を補助する,公共交通網を維持するといった対策しかありません.しかし日本社会のこれからの50年を考えるとき,宇野氏などが構想した50年前のオルタナティブな社会構想を顧みることは非常に価値あることだと思います.最近の若い世代の車保有率がさがってきましたが,わたしなどには悪いこととは思えません.むしろこれを奇禍として,生活圏における交通網のあらたな整備を進めるきっかけにしたらいいのではないでしょうか.

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