流刃若火と残火の太刀から考える、斬魄刀の始解、卍解と完現術と完聖体

山本元柳斎重國の斬魄刀

流刃若火、BLEACHで描かれた最強格の死神、護廷十三隊1番隊隊長にして13隊の総隊長である山本元柳斎重國の斬魄刀である。
炎熱系の斬魄刀として最強にして最古の斬魄刀である。
能力はシンプルで炎を発生させる鬼道系の斬魄刀。
シンプルであるが元立斎の霊力も相まって非常に幅広く、そして強力な力を持ち、殆どの敵を始解で圧倒する。
そしてその卍解となるのが「残火の太刀」。
炎の剣の流刃若火とは打って変わって非常にシンプルかつ、焼け焦げたような刀身に。
この始解から卍解への変化、見た目だけなら劣化している様は主人公の巨大な剣である斬月から細身の黒い刀、天鎖斬月への変化を彷彿とさせる。

残火の太刀の力

卍解である残火の太刀はさらに4つの形態に分かれている。
東西南北の方角で表されており、

東・「 旭日刃」→流刃若火の持つ熱を刃先の一点に集中させた力。始解時点で既に「豪火」ともいえる火力でありながらそれを一点集中させており、閉じ込められた熱は刃先が触れた箇所を抉り取るほどの力を発生させる。

西・「残日獄衣」→山本元柳斎の身体を1500万℃の炎の鎧となった力。
攻撃を触れた先から消滅させる無敵の鎧である。
そして自分の考察では「旭日刃の一点集中とは相反する全体をカバーできる力」と如何にも「旭日刃」との対になる存在である、と考察するにあたりミスリードを誘うのがこの「残日獄衣」である。

南・ 「火火十万億死大葬陣」 →山本元柳斎がこれまで切ってきた死者達の灰に熱を入れて黒い髑髏として操る能力。
山本元柳斎の意思にやっては過去の姿を見せて精神攻撃のようなものも行える。
残火の太刀のなかでは異質であり、いまいち強いのか弱いのか微妙な能力である。

北・「天地灰尽」→黒崎一護の「月牙天衝」のように斬撃を飛ばすシンプルな力。
但し、旭日刃の熱エネルギーを飛ばす為非常に強力な力となっている。

始解と卍解の関係

始解と卍解の関係とは「過去」そのものである卍解に対して始解は「視界」に写る記憶。
視界に写る過去の記憶、とはつまり「日記」や「写真」といった「過去の1ページ」。
そして大抵の場合、それらは自分にとって「都合の良い思い出」であり「過去に思いを馳せる」ことには繋がるものではあるがそれそのものが「過去と向き合う」事にはならない。
あくまでトリガーであり、フィードバックされる記憶の一端。
テレビのリモコンやスマホ、そのアプリなども「大まかな機能」を知っていれば使える事は使える。
しかしその中身である「プログラム」や「機能の全容」を理解している「卍解」と「ただ使えるだけ」
の始解では「運用」の次元が異なってくる。
それが卍解と始解の違い、死神においての力の差だと解釈している。

残火の太刀の「東西南北」が示すもの

東西南北、とすると単純に方位としての意味合いがある。
しかしながらこの東西南北には「春夏秋冬」、そして「人生においての節目」の意味もある。
「青春」、「朱夏」、「白秋」、「玄冬」。
これらは人間の節目を表す名称だがそれぞれ色が当てはめられている。
「青」、「朱」、「白」、「玄(黒の意味)」。
ファンタジーや漫画でお馴染みの四神である青龍、朱雀、白虎、玄武であり、この神々は方位を司っているうえにそれぞれ季節も司る事にもなる。
そのため残火の太刀の力を「東西南北」と表した時点で「東⇔西」と「南⇔北」と対となる方位と表す事が考え方を狭める事になってしまう。
四神の示す季節に倣えば「東→南→西→北」、あるいは「北→東→南→西」となる。
スタートを東、つまり「青春」と捉えるか。
そう考えるとゴールである北の「玄冬」とは全てを終えて死を祭りだけの老人となる。
あるいはスタートを北、「玄冬」という「生まれたばかり」の芽吹きすらない「無」の状態、赤子と捉えるとゴールである西の「白秋」は人生の実りを付けた老年期を指す。
「無」というものを人生においての「始まり」ととるか、「終わり」ととるか。
元々の中国の思想においては無は始まり、と捉えているが欧米化が進んだ現代日本では無を終わりとして考えていると見受けられる。
とはいえ、どちらにしても共通する事は「循環」していく事。
冬が来てもいずれ春が来る。そして季節は巡りまた冬がくる。
BLEACHにおける死神の役目である「魂の循環」を考えると大いにあり得ると自分は解釈している。

もしも山本元柳斎が完現術者であったなら

東西南北の示す事からそれぞれの人生の節目と捉えた時、山本元柳斎とは4つの人生の季節を手に入れた、つまり「完成」した存在であると言える。
そのため斬魄刀の力としての「可能性」全てが元立斎にとって「過去」なった。
それゆえに元立斎は作中でも最強格であるが完成サれたが故に「それ以上」の成長はない。
勿論、死神としての霊圧、霊力そのものは成長するかもしれないがすくなくとも作中で元立斎が生き残り、アレから修練を積んだとしても新たな斬魄刀の力はない、と思う。
その上でもしも元柳斎が死神ではなく命が短い有限である人間の完現術者だったら。
完現術は「物体」に対して術者が「未来」を望む、願望。
そこで「他者」と「未来」の力を東西南北から選ぶ事になる。
「他者」になるのは「炎の斬撃」を自分から切り離す「天地灰塵」、「死者の灰」を介して髑髏を操る「火火十万億死大葬陣」。
そして東西南北から考えた場合、北である「天地灰塵」は終着地点ではあるが同時に始発でもある。
「古い死神」と考えると中国古来の考え方である「北」をスタートに置くとした場合、天地灰塵は過去、そして火火十万億死大葬陣が未来になる。
なのでもしも山本元柳斎が現世で生きる人間で完現術者ならば「ライター」なんかの火を出す物で物体に「熱」を与え、仮初の命を与える完現術者になっていたかもしれない。

山本元柳斎が「完聖体」になっていたとしたら。

完現術と同じように当てはめていくと「完聖体」とは「未来の自分」の姿。
どっかの子供隊長が似たような事をやっていたが、まぁそれは良いだろう。
東西南北のうち、「自分」となる力は「旭日刃」と「残日獄衣」。
その上で「終着地点」ともいえるのは「西」である「残日獄衣」だろう。
恐らくは山本元柳斎が死神ではなく滅却師で「完聖体」になっていたら「獄炎の鎧」を見に纏う「灼熱の化身」。
原作にまるっきりダブりみたいな能力の滅却師がいるのだけど。

もしも崩玉と融合していたら


考察通りなら卍解、完現術、完成体、全ての力を手にし、山本元柳斎重国の中で全て「過去」とされる能力である。
その上で崩玉と融合していたら新たな力は手に入ったのであろうか。
あるとするならば五行説などで使われる「黄」、季節としては季節の節目そのものにあたる「土用」。
節目そのものに山本元柳斎がなるという事はつまり節目がなくなるという事。
旭日刃、火火十万億死大葬陣、残日獄衣、天地灰尽、そして山本元柳斎重國。
あくまで死神が主導となって「力」を振るうから「技」になるのであり、力と融合してしまえば、そして全部が混ざり合えばそこに生まれるのは膨大な熱の塊。太陽そのもの。
はっきりいってそんなものは零番隊が許さなかっただろう。
恐らくに和尚の力で太陽の陽の字から「こざとへん」を取り「太易」として陰陽道でいう「まだ天地の間に気が表れていない様」、すなわち無に近い状態にしてしまうのではなかろうか。

まとめ

いつもの事とはいえ非常に妄想に近い考察なのだけど、それを他のキャラ、日番谷冬獅郎が「完成した氷輪丸」を作中で見せた。
その時の力に「氷輪丸」という龍はいなかった筈だ。
つまり「自分」と「斬魄刀」を同化に近づけた「残日獄衣」に近い存在であると言えるように思える。
また、そう考えた場合、大紅蓮氷輪丸の花びらの枚数の3、という枚数にも玄冬から青春、朱夏と3つの季節をカウントダウンしているように感じられる。
また朽木白哉の「白帝剣」もまた四神の白虎と同様の「白帝」という中国において秋と西方を司る天帝の名前。
斬魄刀、卍解は習得したあとも研鑽を積む必要がある能力だがこうした「季節」、あるいは「方位」を考えた時、卍解を極めれば4つの姿が手に入るのではないだろうか。
そう考えると日番谷冬獅郎も朽木白哉も「背伸び」し過ぎではあるけれど。
そして砕蜂の「雀蜂雷公鞭」も弱い、とネットではされがちではあるがあれが「北」の能力、「芽吹き」の力だとしたら逆に「赤ちゃんのギャン泣き」みたいな力でバラガンお爺ちゃんが慌てふためいたみたいで微笑ましいし、とんでもない伸び代を感じる。
4方位、四季、そんな力の見方をBLEACHでしてみても良いんじゃないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?