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FF16、ドミナントについて書く前に1つのシーンの感想と考察を先に書いておきたい(ネタバレあり)

本当は、ドミナント2人目でフーゴについて思う事を書こうとしましたが、ドミナントやクライヴに今後触れる上で、そこそこ大事だと思っているシーンがあるので、そこを最初に書いておきます。

ウォール―ド王国でアルテマと対峙した後、次元の狭間に飛ばされ、そこでクライヴの精神世界におけるカットシーンがあるのですが、その部分をちょっと抜粋して書きますね。

まず、ロザリス城のシーンになり、そこには、シド、ミド、エルウィン、子供の頃のジョシュア、子供と大人になったジル、の6人がいて、それぞれに色々言われます。言われてる内容は、

シド「なあクライヴ、シドを名乗るお前は、誰かを救えたのか?」

子供ジル「マザークリスタルの破壊…たくさんの人を不幸にしてしまったわ」

エルウィン「結局、志など何の役にも立ちはしない」

大人ジル「所詮は綺麗事なのよ、後にも先にもそこにあるのは積み重なった死体の山だけ...」

ミド「そう、どんなに頑張っても...報われる事はないんだ」

縁者たち「だからもう無理はしなくていいんだよ」

こんな感じです。皆さんはこのシーンどう認識したでしょうか。個人的には、このシーン、クライヴの思っている本音を各キャラの姿が言いに来ている、と思っています。つまり自己否定ですね。

実際他人にそう言われていないのに、そう言われている、思われている気がするなんて経験ある人も多くいると思います。そういう場合って大抵は自分が自分に思っている事を第三者に投影してるんですよね。

つまり、

クライヴ「なあクライヴ、シドを名乗るお前は、誰かを救えたのか?」

クライヴ「マザークリスタルの破壊…たくさんの人を不幸にしてしまったわ」

クライヴ「結局、志など何の役にも立ちはしない」

クライヴ「所詮は綺麗事なのよ、後にも先にもそこにあるのは積み重なった死体の山だけ...」

クライヴ「そう、どんなに頑張っても...報われる事はないんだ」

クライヴ「だからもう無理はしなくていいんだよ」

こういう感じです。
もしこれが、クライヴ自身の自分への自己嫌悪の一部だとすれば、クライヴは2代目シドになってから誰も救えていない様な焦燥感や、マザークリスタルの破壊で沢山の人を不幸にした罪悪感綺麗事を言っても死体が増えていく状況での徒労感など、そういうのをずっと感じ続けてここまで来たんだと思うんですよね。

これは個人的にアルテマがそう言わせてるのではなく、クライヴ自身の本心に向き合わせる事でクライヴを潰そうとしてる感じがしました。誰だって本心と向き合うのはやっぱりいつだって怖いですからね。知らないフリをして強がっていなければ、何かで現実の辛さを見えない様にしていなければ、生きるのが苦しい人は、実際に沢山いるはずです。

しかし、それを飲み込もうとするクライヴに、子供のジョシュアが

「兄さん!」

と呼びかけ、次はドミナントが捕らわれた牢獄に移動します。

牢獄のシーンでは各ドミナントがクライヴに語り掛けますが、これはクライヴに取り込まれたドミナントの感情が強く出てると思っていて(スレイプニルがいるのは、オーディンの一部としてバルナバスと共に出てきている感じですね)、ここが、各ドミナント考察において割と各キャラの重要なベースになると思ってるので先に触れたいんですよね。

ベネディクタ「お願い誰か私を助けて!誰か私を愛して!」

フーゴ「どうして、どうして手に入らないンだ!?こんなに願っているのに!」

スレイプニル「人が自我を持ったがために、己の欲望に固執する、不完全な存在となった」

バルナバス「それゆえ、自らを苦しめ、殺め、自らの欲望で世界さえ壊してしまう」

宿敵たち「なら何も考えないほうが楽になれる」

まず、ベネディクタですが、これはもう考察で書きましたがずっと誰かに愛されたい、捨てられたくない、という恐怖心が先行しています。

そしてフーゴ。フーゴで気になるのは「手に入らない」「願っているのに」という部分ですね。フーゴはゲーム内では割と「金も権力も全てを手に入れたキャラ」というポジションでした。しかし、フーゴもまた、ベネディクタと同じように愛を必要とするトラウマがあり、それをメティアに願う場面もあったのではないでしょうか。もしくは、自分が手に入れたかった愛を手に入れる手段として金や権力、ドミナントとしての力すら手に入れたのに、結局一番欲しかったものは手に入らなかったのかもしれません。フーゴもまた凄く悲しいキャラに感じます。

スレイプニル、バルナバスに関しては流石マリアス教徒と言わんばかりに「人が自我をもった事」について苦言を呈しています。しかしこれもまた、苦しみから逃れる為の手段としての宗教だと感じます。辛い事、悲しい事が無ければそもそも宗教や神の必要性はなく、そういった辛い事から自分の心を逃がす為の自己防衛の1つとして、宗教というものが必要な気がします。
バルナバスもまた、辛い事から目を背け生きてきた1人なのかもしれません。

そして最後は全員が「何も考えない方が楽になれる」と言っています。先ほどのロザリス城のシーンがクライヴの本音だとすれば、ここはドミナント達の本音だと思うんですよね。つまり、あれだけクライヴの前に立ち塞がって壮絶なバトルと繰り広げたドミナント達も、普通の人と変わらず、辛い事から目を背け、何も考えない方が楽になれると自分に言い聞かせながら、一生懸命生きてきていたんだと、そう感じてしまいます。

クライヴの本音、ドミナント達の本音、こういった事を考えて色々なものを見るのと、考えずに見るのとでは、だいぶ印象が変わるのではないでしょうか。

少なくとも俺には、クライヴはずっとマザークリスタルの破壊によって人が苦しんでいる事も、目に見えるベアラーを思い通りに救えない事も、ずっと苦しんで自分を責め続けている様に見えるし、ドミナント達も本当はずっと苦しい場所から逃げたかったのに、環境や状況がそうさせてくれなかったり、自分が手に入れたいものが出来て、進むしかなくなってしまったりして、同じく苦しんで生きてきている様に見えます。

クライヴ自身、このシーンに辿り着くまでにマザークリスタルはドレイクスパイン以外破壊が終わっているので、他のドミナントと同じように、本当は苦しいのに「何も考えない方が楽になれる」と深層心理には蓋をして、ここまで進んできてしまったのかもしれません。

本当はもっとドミナント1人1人を掘り下げるシーンがある方がわかりやすい、とそう思います。ゲームですからね。でも実際にこうやって苦しんでいる人間がいるとして、現実では中々それに気付ける事は少ないと感じます。

今よりも昔の方が、苦しい事を言えないまま、理解されないまま、それでも自分らしくしか生きれないままに、死んでしまう様な人の方が多かったとも思います。そういう意味で、残酷でわかりにくい表現でしかないのに「死んだ後に取り込んだドミナントに残った意識として本音を出させる」なんて表現にしたのかな、って思っちゃうんですよね。

FF16はそういう所に個人的ですが「リアルさ」を感じるんですよね。ゲームとしてのよくあるリアルさでは無くて、リアルにある残酷さというか、どうにもならなさというか…。本来は言葉すら残せないまま死んでいく人の方が多い時代でしょうから尚更です。

この後、クライヴは

「ああ…そうだな…」

とドミナント達の「何も考えない方が楽になれる」に同調する姿勢を見せますが、大人のジョシュアに呼ばれ、またシーンが変わります。

場所が燃えているロザリス城になります。
燃えるロザリス城、そして涙を流すクライヴ、これも深層心理ではロザリアを救えなかった事をずっと悔いている描写にも見えますし、もしかすると、ジョシュアが出てきている所を見ると、クライヴの深層心理に関してごちゃごちゃ言ってくる面倒なクライヴ本人自身の心にある自分の殻(ロザリス城)の様なイメージを、ジョシュアが燃やしてくれた描写なのかもしれません。

その後、クライヴはジョシュアに自分の名前を呼ぶ様に促され、目に輝きが戻ります。クライヴ自身、昔からずっと優しかったので、色んな人の事を考えすぎて、自分が誰の為に何をしたらいいのかわからなくなってきている所に、自分の名前を呼ばせる事で「俺はクライヴ・ロズフィールドだ」と再自覚させてる感じがしました。

FF16は結構至る所に、こういった自己否定や自己肯定のメタファーが使われている感じがします。その分、キャラクター自身が表で自分の感情を大きく話したり説明する事が少なく、それを少し感じ取れる部分が目線だったり、何かを言い淀む仕草だったり、そういった所なので、わかりづらいと思われちゃうのは確かなんですよね。

俺はクライヴやシドがちょっと言い淀む(パッと答えない)時なんかは「今、何か一瞬考えて、無かった事にした?後ろめたさを持ってる?それとも何か違う事考えてる?」とか思いながらそれぞれのキャラを見ていたんですけど、本当にガチのリアルな人っぽくて凄いなって思いながらプレイしてました。

このシーンは、今後、ドミナントの感想や考察を書く際にもベースの人間性として参考にしたいシーンでもあるので、最初に書こうと思いました。
次こそ、フーゴについて書ければいいなと思ってます。


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