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実家に帰ったらお父さんがすっかり町に馴染んでいた

妹の赤ちゃんのお宮参りとお食事会で、実家に帰った。とりあえず、おなかにいる時から神宮へ連れて行かれた経験を持つおいっこ(↓記事参照)には、ここぞとばかりにつばくろうスタイと靴下を身につけさせておいた。こういうのを英才教育という。ようこそ!弱肉強食ソフトバンク最強の現実の世界へ!

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お宮参りの翌朝、起きたらお父さんが、子どもたちと「ラジオ体操して朝ごはん食べに行こう!」と話していた。さっぱり意味がわからない。と、思っていると、お父さんは「まいも後からおいで!スパーさんの手前、来たらわかるから!」と言い残し、子どもたちと去っていった。

どういうことだ…と思いつつ、のろのろ準備し、オットと後を追いかけると、実家の近くに見たこともない古民家カフェのようなものができていた。

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私が生まれ育った町は、まあ一言で言えば、とてもとても田舎だ。子どもの頃NHKでやっていた「中学生日記」を見ては、「帰り道にマクドがあるとかどんだけ都会・・・?」と、思っていた。いや、NHKだからマクドではなく「ハンバーガーショップ」の設定だったと思うけれど、もちろん田舎の中学生の私はマクドしか知らない。

中学校と実家までの間には、商店など一つもなく、ただひたすらに川沿いに桜並木が続く、そういう町だった。

そんな町にちょっとおしゃれな古民家カフェが現れたものだから私はさすがに面食らった。マクドを通り越して古民家カフェである。

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カフェのお庭で、お父さんと子どもたちは小洒落たサンドイッチのモーニングを食べていた。ハッピーセットではない。小洒落たサンドイッチのモーニングである。

隣のテーブルでは、私が幼いころ町内のいろんな役をしていてくれた記憶のある、おじちゃんたち(もうすっかりおじいちゃんかもしれないけど)が、これまたモーニングを食べながらコーヒーを飲んでいた。

私とオットが来たことを確認したお父さんは、「じゃあここ座って。」と言い残し、隣のテーブルのおじちゃんたちのところに移った。そしてえらくいけめんのカフェの若者に、あそこのオーダー頼むわ。と、言った。

ヤンキーのバイトではない。いけめんのカフェの店員である。何がどうなってんだ、ここはどこなんだ。

困惑しながら席に着くと、今度はえらくかわいい、大学生らしき女の子がお水を持ってきてくれた。

聞けばこのカフェは、京都産業大学と、私の地元の町が一緒になって、いわゆる町おこしの一環として運営しているらしい。このマクドナルドすらない小さな町を、この町の出身というわけでもない学生さんたちが盛り上げようとしてくれているというのだ。ありがたや…ありがたや…

カフェの食器や、ピッチャーや、なんならお庭の木までも、近所の人が持ってきてくれたものを使っているそうだ。

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どうりで実家に帰ったときみたいな妙な落ち着く感じがあると思った。いやまあ、実家のすぐ近くなのだけれど。


学生さんたちと協働し、町のコミュニティスペースのようになっているそのカフェで、お父さんは町のおじちゃん(おじいちゃん)たちと、ラジオ体操のボランティアのようなことをしているらしい。

私が到着した時にはラジオ体操はすっかり終わっており、みんなでモーニングを食べ、忘年会の日どりをわいわい楽しそうに決めていた。おじいちゃんたちの忘年会は早い。

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その様子を隣のテーブルから見ていたオットは、「『人生の楽園』じゃん・・!西田敏行の声が聞こえてくる…!」と、言っていた。

そういえばお父さんは、1年くらい前、町内会の何かの役をお願いされたけど引き受けようかどうしようか、と、悩んでいた。

私はそういうのはごめんだわ、というタイプなので、「私なら断る」と、言い放ったのだけれど、私と違って心優しき(本当に優しいのだ・・・)妹たちは、「引きうけてあげたら?他に誰もいーひんのやと思うし」と、言い、じいじはその役を引き受けた。

そしてそんなことがあったことすら忘れていた薄情者の私は、じいじがいつの間にか、楽しそうにその役仕事をこなし、町のおじちゃんたちとコーヒーを飲んでいるところを、突然目の当たりにしたのである。


お母さんはこの町で生まれ育ち、この町で子育てもした。そして、最後をこの町で迎えた。この町を離れたことはほとんどなかった。だけどお父さんは結婚して初めて、この小さな町にやってきた。

昭和のサラリーマンだったお父さんは、参観日とかにもほとんどきたことがないし、町のお祭り的なものにも参加してたおぼえがないし、町内会や子供会的な地域の仕事は全部、専業主婦だったお母さんがやっていた。

当然、この町との結びつきはお母さんが強かったし、お母さんが亡くなってからも、私は帰ってくるたびに色んな人に「お母さんによう似てるなぁ」と声をかけてもらっていた。その声はもちろん、私をとても励ましてくれた。

この町とのつながりは、私にとってお母さんとのつながりでもあった。

だけど私の知らないうちに、いつのまにかお父さんはこの町になじみ、自分でコミュニティーに溶け込み、楽しそうにコーヒーを飲んでいる。

「お母さんによう似てるなぁ」とか、「おじいちゃん(おっきいじいじ)にはいっつもお世話になってて」と、声をかけてくれるこの町の人たちは、最近、「お父さんにはほんまに楽しませてもろてるねんよ。この間の集まりの時なんかね…」と、にこにこ話しかけてくれるようになった。


お母さんが亡くなった12年ほど前、お父さん方の親戚の人たちは、50過ぎの男の人が一人で生きていくのは大変だから、再婚を考えた方がいいんじゃないか、と言っていた。何も今そんなこと言わなくても、と、思いながら、私だって少し、そういう思いが頭をよぎらなかったわけではない。何と言っても昭和のサラリーマンで、家事は全部お母さんに丸投げしていたお父さんが、一人で生きていくのはやっぱりどこか心配だったのだ。

でもお父さんは、そういうのは全然考えてない、と言い切り、妹たちが結婚して家を出た後も、おじいちゃん(お母さんのお父さん)の家の近くで、一人で住んでいる。

お母さんが亡くなってから、お父さんはそういえば、自分で料理もするようになった。口のうまいむすめは、「じいじのつくるあさごはんがせかいでいちばんおいしい!!」とか言ってじいじを喜ばせている。

そしてこうして、私の知らない間に、この町にすっかりなじんだお父さんは、どうやら「人生の楽園」を謳歌している。

もう、お母さんはいないけど、でも、お母さんのことを知る人がたくさんいる、この町で。

それはとてもとても、うれしいことだ。

そうだよな、と、私は思う。お父さんだって、サラリーマンを卒業して、今でも仕事を続けている大の大人なのだ。自分のことくらい自分でできるし、そしてお母さんが生まれ育った町で、新しい友達を作って、この町に馴染み、生きていくことだってできる。

古い考えにとらわれたくない、といつだって思いながら、この町を出て、東京に出て、子どもが生まれてからも仕事をして、と、どこかこの小さな町に反発しながら生きてきた私の方が、まだずっと染み付いていた古い考えがどこかにあったのかもしれない。


なんにもないこの町で、でも私が生まれ育ったこの大好きな町で、お母さんと過ごしたこの小さな町で、みんながにこにこコーヒー飲みながら楽しく暮らしているなら、まぁそんなうれしいことはないよな、と、思う。

そして、ありがとう京産大の学生さんたち、と思う。離れながらもやっぱりずっと好きだったこの小さな町を、私は離れて初めて気づくことができたその良いところを、見つけてくれて広げてくれてありがとう。またちょくちょく帰ります。

⏬この町のきれいな桜を京産大のゼミ生の皆さんが紹介してくれていて感謝しかない・・・・・・・・・



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