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自分をバカだと思っているあなたへ



自分がバカだと思えるタイミングは、あちこちにある。

その反対に、私は天才だ!と思っても良い瞬間も時々あるのに、
バカ=恥ずかしい
というバイアスに引っ張られて、
ネガティブな方へと傾きがちになるのは、日々を生きていて私だけではないように思う。育てられ方でなのか、元々の性格なのか、自己肯定感が高めか低めかの話もあるだろうか。
一旦、ここでは、自分をバカだと思えて仕方のない人へお話しをはじめることにする。

私の人生もひとり、トンマな祭りの毎日

私もその視点でいえば、太ももを叩きながら、あぁなんて自分はバカなのだ!と
思うタイミングが多すぎるので、バカなのだろう。
勉強もそんなにできなかった。
人生の選択もちょいちょいミスっている。
恥ずかしいと思うこともしばしば・・
空がキレイだと思って見上げながら歩いていたら、溝にはまることがある。
聞けば、母が何度もあったそうだ。

遺伝かな

だけど、これはおっちょこちょいのジャンルになるのかな・・


一時期、その当時の首相、A氏が漢字が読めないと話題になっていた。
例えを挙げると「未曾有」私もこれを「みぞうう」と読んでいた。
正解は「みぞう」である。

そもそもの話が好きなので、ここでも『そもそも風呂敷』を広げておくと、
バカとはそもそも、梵語のmoha という音写で『愚』の意味だそうだ。
莫迦という字がそもそもらしい。つまりは仏教用語で、馬鹿は当て字だそうだ。

そういえば、愚かさを自らの絵に刻印した画家がいた。
レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロと並ぶ、ルネサンス期の天才画家
ミケランジェロ・ヴォナ・ローティ(1475年〜1564年)である。
彼は「最後の審判」で天使が7つのラッパを吹き、神の降臨を伝え、そこから
人間達を天国と地獄に振り分ける終末の様を描いた。
その天国と地獄の中間、絵の中央向かって右に、皮だけになったベロンベロンのミケランジェロ自身を描いた。
どのような思いが、その絵の中に込められているのかはミケランジェロ本人でないと
正確にはわからないが、神の御前では自分を愚かだと思っていたであろうことは汲み取れる。(尊敬する山田五郎氏によると、激務で疲れ果てている自分の姿を描いたと解釈されている)

私は愚か
私はバカ

このような言葉を冠に掲げて、生きていかねばならないのもしんどい。
しかし、それでも大丈夫!生きていける!むしろ気が楽!おもろい!
というふうに思えるように、このあとの話の展開を頑張っていきたいと思う。

時空を超えた牛乳を注ぐ女と向かいあう男

この記事を読んでくださっているあなたもミケランジェロも、
生まれた時と場所は違えど、同じ人間。
そこには、毎日の出来事(いろいろあることも、なさすぎることも)を
受け入れて歩んでいくことの常がある。
その常の中に、例えば牛乳をコップに注ぐタイミングがある(ここからは空想)
たまたまそこに居合わせた家族か知人が、あなたのその様子をみて、
脳内でシナプスがプチプチ動いた。

「美しい!」

その家族か知人の画家(仮の名をシナプスさんとしておこう)が、
たまたま絵を描くことが異常に好きで、好きすぎて画家の自分を止められない。

「今、その状態でじっとしてて!」

画家シナプスさんに突然言われてびっくりしたあなたは

「えっ、なに?なんなの?ちょっといつまでもこの態勢はきついんだけど」

と言ったり、思ったりしながら我慢する。

なぜなら「キレイだ」と「素晴らしい」を連呼されるので、
悪い気はしないからやめるにやめられない。

でも、窓から降り注ぐ光が眩しい。しかも、昨日掃除できていない所に
光が当たって、目立つので気になって仕方がない。
こうして、あなたの我慢の先に、すごい名画が誕生した。

「牛乳を注ぐ女」画家はヨハネス・フェルメール(1632年〜1675年)

牛乳を注ぐ絵のモデルだったあなたは、数百年後に生まれ変わって(空想)
今は、牛乳を注いでもらうことが多い。
その牛乳を飲んで準備を整えたあなたが、向かった先は、駅。
駅の巨大広告には、牛乳の広告にでかでかとその絵が使われていた。

「牛乳を注ぐ女」を朝のママだわ・・とクスッと笑う。

描いた画家がのちに、フェルメールとわかるあなた。
かつて前世で牛乳を注いだモデルのあなたとフェルメールが
はからずして再会した瞬間だ(しつこいようですが空想)

フェルメールの絵に親近感を覚えたあなたは、その後も、フェルメールに
敏感になる。敏感になればなるほど、不思議と、
それにまつわる情報を目にするようになる。
なんならフェルメールの絵に多くみられる、背景に描かれたタペストリーの由来なんかを、ちょっと喋ってみたくなる。
そうして、芸術はまちがいなくその広さと奥深さを見せてくれる。

お気づきだろうか。私はバカかもしれない。
私は愚かかもしれない。

しかし、このような敏感センサーを持ち合わせることで、少しずつ情報を集め、
知識として大切にしていれば、やがてそれが教養となる。

孤独なトン祭りにも意味がある 


本当のことを言おう。

じつは、情報は敏感センサーが働いた時点で、集めようと努力しなくても勝手に集まってくることが多いから人間の脳とは不思議なものである。

話を戻す。

「いやいや、情報を集めても、学校の勉強とかには直接関係ないから」

「わかる!」

だけど、十代や二十代の若い時代に知ったことやそれにより、
感じ考えたことは、
一生忘れないくらいの知のエネルギーを内包していることを、
随分と大人になってから知る。
教養の種まき、すなわち生きる力の種まきをしていたのだと。

いや、ひょっとして自分をバカだとある意味、謙虚に捉えている時点で
あなたはむしろ、そのことを知っているのかもしれない。

学校の勉強や成績のものさしで、あなたをはかると、確かにお勉強の
できないあなたは、随分と学校でも居心地が悪いかもしれない。
教養の種まき云々言われたところで、
毎日、朝起きて支度して学校に行くのが必死である。
学校だけではない。アルバイトなどをしても、要領が悪く、

「バカ」

「なんかおかしい」

他人からも、なんなら家族からも冷ややかな視線とともに言われる。

これらはズバリ 私 である(しかも現在進行形)

しかし、
こんなことはないだろうか。

音楽室の作曲家たちの顔が忘れられない。
作曲家のヘアスタイルも気になるし
なんなら話しかけてくるし、図工室だってそう。
国語は嫌いではなく、むしろ好きかも。
物語の授業の時は特に。
物語については、授業の後も、
家に帰っても、寝る前とかも考える。
ストーリーがなかなか頭から離れない。等

そのことを認めてくれる人がそばにいなくてもどうか
どうか大切にしてほしい。
それがあなた独自の感性であり、所与性であり
感性は知識と結びつくと、大きな力を発揮してくれる。

自分の感性に気づくと、他人の感性との共通点や相違点にも気付く。
やがてあなたとの感性を共有できる人も少なからずあらわれる。
共有者(オンラインでもオフラインでも)が増えると、
そこからは毎日『祭り』である。
















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