スポットライト 第3回

1

 泣いて、疲れて、眠って、また起きたら泣いて。そんな1日をどれくらい過ごしたか分からなかった。もう記憶すらない。久しぶりに自分の意識というものを自覚したのは、ある人物の訪問がきっかけだった。
「浩一くん、連絡が取れないから心配したんだよ。君まで死んでいなくてよかった」
 香凜の父、武さんだった。まだ結婚したわけでもなかったのに、交際を報告した当初から何かと僕を気にかけてくれていた。
「まあ、元気とは言えませんけど、なんとか生きてはいます。毎日泣いてますが」普段ならこんな言い方は絶対にしない。たとえ武さんがブラックジョークを言ってきたとしてもだ。自分の精神はもう限界なんだと、改めて自覚する。
「その様子じゃろくに飯も食ってないんじゃないのか?」言いながら彼は大量の食材を準備している。まるで僕がこうなっていることが分かっていたみたいだ。「手の込んだものじゃないが、何か作るから少し待っていなさい」
 断ろうとしたけれど先に武さんから「私の作ったものが食べられないというのか?」とプレッシャーをかけられた。どうやらこれ以上の会話は無駄らしい。
 彼はもともと料理人だったらしい。確かミシュランで星を取るような超有名シェフだったような。どれもこれも香凜の受け売りでもう忘れかけているけど、とにかく武さんの作る料理はどんなものでも最高にうまい。
「人間、どんな時でも腹は減るんだよ。むしろ落ち込んでる時に限って余計に減るのかもしれない。私たちも所詮は動物だということだ」そう明るく話している武さんの手はずっと動いていて、今も野菜を何かの調味料で炒めている。いい匂いはするが、あいにく僕は鼻が利く方じゃないので何の調味料かは分からなかった。
「本当に簡単なものになってしまったよ」野菜炒めとスープを運んできた武さんはバツが悪そうだった。僕としてはどんなに簡単なものでも嬉しかったし、さっきまで食欲なんてなかったのに彼の料理を見ると一気にお腹が空いていたことを自覚した。
「さあ、遠慮せずに食べなさい」大きく息を吸い込む。「いただきます」と言おうとしたがうまく言葉が出ない。仕方なく頭だけ下げて食べ始める。
 正直、味なんてどうでもよかった。いや、正確には味わう余裕なんてなかった。もちろん美味いけれど、それを言葉にすることすら億劫だった。
「そんなに焦らなくても誰も取らないさ。香凜じゃないんだから」
 香凜の名前が出て、少しだけ冷静になる。そういえば彼女は「一口ちょうだい」が口癖だったっけ。
「別にあげたくないわけじゃないんですよね。ただ香凜は一口が大きいから。こっちの想定以上に持ってかれちゃう」
「やっぱり君もか!」武さんが大口を開けて笑うので、こっちまでおかしくなってきてしばらく笑った。
「そういえばこのニュース、見たかい?」まだ笑いは収まっていなかったけれど、スマホを見せられた瞬間に緊張が走る。
『吉川香凜衝撃のデビュー作、待望のBlu-rayリリース決定!』
「てっきり君はもう知っているものと思ったんだけど……」
「初耳ですね」言ってから、ふと自分のスマホを確認してみる。思わず「あ」と声が出た。
「担当編集から確認の連絡来てました。僕は記憶にないんですが、仕事のことはすべて彼に任せているので、彼がゴーサインを出したようです」
「それにしても異例じゃないか」
 武さんが驚くのも当然だった。香凜の映像作品デビューは2時間ドラマの被害者役だったからだ。
「あの、武さん、これ、僕と一緒に読んでくれませんか」僕はさっきできたばかりの原稿を彼に手渡した。

2

「もしもし? はい、吉沢浩一は私ですが。え? はい、そうですか。ご連絡ありがとうございました。はい。詳しい打ち合わせは後日ということで。はい。失礼します」
 人間はあまりの衝撃を受けると、逆に冷静になるらしい。応募した原稿が新人賞を受賞することになったという連絡を受けた時の僕がまさにそうだった。冷静すぎて話を聞いていないと思われたらしい。
 けれど電話を切ってみると、だんだんと実感が湧いてきた。小説家の夢を叶えると彼女と約束してから3年が経っていた。

 あの時、僕たちは約束をした。
「せっかく付き合うんだから、学生の間は楽しもう。それで卒業したら、一切連絡をしない。どう?」
「どうって言われても……。じゃあ僕たちが付き合うのは学生の間だけってこと?」
「話は最後まで聞きなって」香凜はため息をついた。「卒業したら次に連絡を取るのは、どちらかの夢が叶った時。それまではお互いを信じながら、連絡しないことでプレッシャーをかけるの」
 僕は正直不安だったけど、この提案に乗った。僕が愛する女性は生涯香凜だけという自信があったし、小説新人賞を狙うにしても悠長に構えていてはいけないと思ったからだ。
 お互い、「浮気だけはしないように」と約束して僕たちの高校生活は終わった。正直、僕は不安だった。香凜は僕にはもったいないほど素敵な女性だったからだ。だからこそ、一刻も早く小説で結果を出さなければいけなかった。香凜が誰かに目移りする前に。もしも彼女の興味が他の男に行ってしまったら、もう振り向かせることは不可能だと確信していた。

 あれからもう3年経った。約束通り、彼女とは一切連絡を取らなかった。だから久しぶりに彼女とのトーク画面を開いた時、とても驚いた。
『国民的プリンセスに選ばれました。具体的な作品は決まってないけど、今度丸川出版が主催する新人賞の受賞作品で女優デビューすることが決定したよ!』
 丸川出版というのは、今僕が受賞した新人賞を主催する会社だ。つまり香凜は、僕の作品を原作にしたドラマで映像デビューすることになる。
 彼女が僕の受賞に気づいていなかったとしても、それは仕方ないことだった。吉沢浩一という名前では書いていないからだ。ペンネームというものに憧れて、松倉智哉という名前で応募した。勉強のため読んだ小説作法の指南書に「ペンネームをつけた方がプライベートが守られやすい」と書かれていたことも大きな理由だった。
 香凜のメッセージを見ると、日付は2週間前となっていた。もしかしたらもう僕のデビュー作を読んでいる可能性もある。
『久しぶり。女優デビュー決定おめでとう! 実は僕も報告があって、丸川新人賞を受賞したのは僕です。原稿、もう読んでたりして?』
 5分ほどかけて作った文章を、半ばやけっぱちで送った。するとすぐに既読がついて、電話がかかってきた。
「おめでとうございます、吉沢先生?」久しぶりに聞く香凜の声はとても心地よかった。少しからかうような雰囲気があったけれど、それも嬉しかった。
「先生はやめてくれよ。それに吉沢浩一って名前じゃないし」
 あ、それもそうか、と彼女は笑った。
「それにしても面白かったね。『恋風邪』。私の役ってどんなのかなぁ」
 新人賞の応募要項には、「映像化前提なので主人公とヒロインのキャラクターは特に立ててほしい」との注釈があった。原稿の冒頭につけるあらすじにも、誰が主人公で誰がヒロインなのか明確にするようにと指示があった。
「俺は香凜をイメージしてヒロインのキャラクターを作った。まさかこのタイミングであなたが芸能界に入るなんて思わなかったけど」
「そうなったら最高だね! 撮影現場でも会えちゃったりして」まだ何も決まっていないのに、すでに香凜は興奮していた。
 これ以上話していると無駄に長話をしてしまいそうだったので、「この後インタビューの仕事入ってるから」と嘘をついた。最後に、メッセージアプリの再稼働を約束して久しぶりの会話は終わった。
 言いようのない興奮が僕を包んでいた。それが夢が叶ったことによるものなのか、それとも香凜とまた話せたことで舞い上がっているのかは自分にも分からなかった。

3

 受賞が小説誌で正式発表されて間もなく、担当編集者がつくと連絡があった。「何かご希望はありますか?」と言われたのにはびっくりした。今の時代、編集者も向こうの都合だけでは決められないらしい。「特にこれということはありません」と答えておいた。人間的に捻じ曲がった人物でなければ特に希望などなかった。
「では、こちらが選定した人間が松倉先生の担当編集ということで。これから打ち合わせをしたいのですが」予定はなかった。時計を見ると10時を少し過ぎていた。「では10時半でいかがでしょうか」と応えながら着ていく服を考えていた。
 近くの喫茶店で待ち合わせした。いよいよ小説家としての第一歩を踏み出すのかと思うと少し震えがきた。怖さ半分、楽しみ半分といった心境だった。
「お待たせしてすみません」現れたのは僕とあまり歳の変わらない男だった。
「私、丸川出版の村山と申します。この度縁あって松倉先生の担当編集を務めさせていただきます。よろしくお願いします」ロボットのような硬い動きで、彼は頭を下げた。
「そんなに硬くならなくても大丈夫ですよ。僕も緊張しちゃいますから。フランクにいきましょうよ」努めて明るい声を出した。こういう人間は苦手なのだ。
 編集者と小説家の間に上下関係はいらない、というのが僕の考えだった。仕事上の礼儀はもちろん必要だが、過度にへりくだった態度はかえって仕事の邪魔になる。
「僕のことも、先生なんて呼ばないでください。普通にさん付けでいいです。僕なんてまだ新人賞が獲れただけで、もしかしたらまぐれかもしれないですから。まあ、そうならないように努力はするつもりですけど」
 この言葉で、村山さんも少し緊張をほぐしてくれたようだ。先ほどまでのロボットムーブが嘘のようにハキハキと話し始める。
「今回話したいのは、『恋風邪』の権利についてです。現在すでに書籍発売が決まっていますが、同時に映像化のプロジェクトも進行中です。それはご存知ですね?」
「ええ。募集要項の時点で書いてあったから」
「ここで問題なのは」彼はひと口水を飲んだ。「原作者である松倉さんがどこまで関与するかです」声に真剣さが滲んだ。この話は長くなるな、と直感した。
「何か食べながら話しませんか。僕、空腹だと頭が回らないんです」
 緊張していたせいか、いつもより腹が減るのが早かった。村山さんがメニューの一番最初にあったナポリタンを注文したので、僕もそれに倣う。
「あまり大きな声では言えないんですが、昨今は原作のある映像作品は敬遠される傾向にあります」
 その話なら聞いたことがあった。原作をまるっきりそのまま映像化するというわけにもいかないから、脚色というものが加えられる。原作にはないエピソードを追加したり、逆にもともとあったエピソードを割愛したりする。仕方ないことではあるのだけれど、脚色という名を借りた原作の大幅改変がされてしまうケースもある。もちろんそれでも作者さえ了承していれば問題はない。しかし出来上がった脚本を見て「やっぱりこれじゃ納得いかない」というのは少なくない話だったはずだ。
 このことを村山さんに話すと「さすがですね」と頷いた。
「うちは映像化前提で原稿を募集しているので、この問題には関心のある方が多かったようです。それでうちとしても方針を示す必要がありまして、原作者の方が映像作品用の脚本も担当するということも可能にしてあるんですが……。松倉さんはどうされますか?」
 ナポリタンが運ばれてきた。きちんと2人とも同じタイミングだった。
「まずは食べてもいいですか?」一応質問はしたけれど、答えを待つことなく食べ始めた。純粋に空腹でもあったが、考えをまとめるのに少しでも時間がほしかった。「村山さんもどうぞ」
 そこからは2人ともナポリタンの話しかしなかった。村山さんも僕の意図を汲んでくれたようだ。全部食べ終わったあと、僕は最初から決めていたただ一つの条件を提示した。

4

「松倉さんのご意見、通してもらえそうです」と村山さんから連絡があったのは、あれから1週間くらい経った頃だ。ほぼ同時に、香凜からもメッセージが来る。
『私の役が正式に決まったよ! でもまだ説明しか聞いてないからちょっとパニック』
 ずっと考えこんでいる香凜の顔を想像したら笑えてきた。ここまでは計画通りだ。学生時代さんざん困らされたのだから、今度はこっちの番というわけだ。
『撮影はいつから始まるの?』これはまだ僕も聞いていなかった。スケジュールさえ合えば見学させてもらおうと思っていたのだ。
『来月あたりから撮影が始まって、私も初日から参加だって。ねえ、あれはどういうことなの?』
 香凜がとうとう降参した。きっと台本をもらった段階から戸惑っていたに違いない。僕は有頂天で通話ボタンを押した。
「びっくりしただろ? 被害者がヒロインだなんてさ」

5

 僕が書いた小説「恋風邪」は、ミステリーとしてはかなりイレギュラーなものだったと今でも思う。
 物語は、ヒロインである大野夢香が毒殺されているのを母親が発見するシーンから始まる。状況から自殺ではあり得ない。殺人事件として警察が捜査に乗り出す。ここまでは通常のミステリーと変わらない。しかしここからが違う。
 探偵役である刑事の視点、被害者の恋人であり犯人でもある青年の視点、さらに被害者であるはずのヒロインの視点が順番に登場するのだ。
「映像化を意識した作品を」という応募要項を見た時にこの構成を思いついた。そしてもし受賞できたら、被害者役は何としても香凜に演じてほしかった。
 気が早いかとも思ったけれど、小説のキャラクターは詳細に作り込んでおくに越したことはない。もしそれらの設定を小説で使うチャンスがなかったとしても、それはそれでいいというのが僕の考えだった。それで香凜に半ば当て書きするようにヒロインのキャラクターを決めていった。
 いわゆる倒叙ミステリーというのともまた違う。「恋風邪」は、吉川香凜がヒロインを演じるために描いた小説と言ってよかった。

「被害者の描写をおろそかにするなって、そんなの当たり前じゃないですか。松倉さんの原作を尊重するなら、夢香のキャラクターが一番重要になることは分かりますよ。よほど無能なスタッフじゃない限り」
 あの日の打ち合わせで村山さんのこの言葉を聞いた時、彼を信頼しようと思えた。作者である僕と同じ価値観を持ってくれていたからだ。
「目立つ女性キャラクターは、あえて夢香しか登場させなかったんです。刑事たちも一応名前はつけましたが、女性で立てたいキャラクターは夢香だけなんです」
「そうなんだろうと思っていました。ただ……」ここで少し村山さんの表情が曇った。
「被害者がヒロインであるという構成は否定しません。むしろそこが面白いと思います。でも、ヒロインが冒頭で殺されてしまうとなると、やっぱり新人女優のデビュー作としてはどうなのかという意見も出るとは思います」
「だから」思わず声が大きくなった。深呼吸をして気持ちを落ち着ける。「村山さんに頑張ってほしいのはそこなんです」
「私に上層部の意見をねじ伏せろとおっしゃるんですか」
「いえ、そこまでは言いません。実は、この作品の執筆当初から考えていたことがあるんです。この計画がうまくいけば、御社も僕も納得できるような作品が撮れるはずなんです。一緒に戦ってくれませんか、村山さん」
 彼はしばらく唸っていた。けれどやがて意を決したように深く頷いてくれた。僕は今まで頭の中だけで練ってきたプランを話した。そしてみなさんご存知のあの映画「恋風邪」プロジェクトが動き出す。僕は原作小説とは全く違う、映画「恋風邪」用のオリジナル脚本を新たに執筆することになった。

 ここまで読んでくれた方ならもうお分かりだろう。香凜が知っているのは、「自分がヒロインになる映画の原作を吉沢浩一が書いた」という事実だけ。脚本家としての新たなペンネームを考えるのは少々面倒だったけれど、そのおかげで香凜はもちろん他の出演者たちも、脚本まで僕が書いたとは夢にも思っていない。

6

 出演者たちへのサプライズ発表のため、撮影現場にお邪魔することになった。受賞発表会見で僕の顔が出演者全員に認知されただろうということで決まった。
「本当にスーツじゃなくていいのかな。役者さんたちに失礼じゃないかな」僕は生まれついての小心者で、サプライズなどという経験は皆無だった。自分が仕組んだことではあったのだけれど、ずいぶんと大仰なプロジェクトになってしまったなぁと後悔もした。
 不安がどうしても拭えない僕を、村山さんはずっと応援してくれていた。「原作者なんだから堂々としていればいいんです。それに、夢香役の子とは幼なじみらしいじゃないですか」
「幼なじみって言っていいのかな。まあ学生時代同じクラスだったことはあるけど」この頃になると、僕は村山さんに敬語を使わなくなっていた。彼にもそれを望んだが、未だに敬語は抜けない。それでも少しずつ絆ができているような気がしていた。
「それにしても羨ましいなぁ。女優さんと同級生だなんて」
「そうは言っても、高校卒業以来会ってないから。女優としての吉川さんのことは全く分からないよ」仲良くなって以来初めて彼女のことを「吉川さん」と呼んだ。村山さんにはあの甘酸っぱい青春を共有してほしくなかったのかもしれない。
 サプライズなのでいきなり見学ということにはならず、スタジオの楽屋に通された。おそらく事情を知っていると思われる女性が「頑張ってくださいね!」と声をかけてくれたけれど、僕は持ち前の人見知りを発揮して完全無視。代わりに村山さんが「ありがとうございます」と言ってくれた。

「松倉先生、この度は素晴らしい原作と脚本を提供してくださり、本当にありがとうございます」
 なんとなく見覚えのある顔の男性が入ってきた。僕とそんなに変わらないくらいの年恰好だった。「恋風邪」という文字が印刷されたTシャツを着ていたので、今回の映画のスタッフだと思って「ああ、どうも」と曖昧に挨拶した。
「今回の映画を監督しています、大沢英二と申します。このような素晴らしい企画に携われてとても光栄です。今日は存分に見ていってくださいね」
 少々パニックになった。映画監督って、あんなに若くてもできるものなのかと驚いたのだ。そう言われると、僕の受賞と前後した時期にニュースで見たような気がしないでもない。「そんなにお若いのにすごいですね」という言葉がでかかったが、「不適切発言」という文字が頭を駆け巡ってくれたおかげで口には出さずに済んだけれど、顔にははっきり出てしまった。
「こんなに若いのに、とお思いですよね」監督の顔には微笑が浮かんでいる。
「私も松倉先生と同じなんです。短編映画の新人コンテストに応募した作品がグランプリを受賞しまして。丸川出版さんが主催する翔節新人賞とタッグを組む形で、長編作品を監督する権利が副賞として与えられました」
 村山は僕の横で驚いた顔をしていた。「村山さん、もしかして何も聞いてないの?」
「実はそうなんです。私たちの領分は作家のみなさんのサポートですから、映画部門のプロジェクトのことは今初めて聞きました。そういうことは上が知っていればいいということじゃないでしょうか」間違った理屈ではないのに、彼はなんだか申し訳なさそうにしていた。
「ちなみに、今はどんなシーンを?」
「例のシーンですよ。先生がこだわられたっていう」先生、と呼ばれることに若干の抵抗があった。しかしここでそれを言ったら雰囲気が悪くなるということはさすがの僕も認識している。
「ちょうどよかったじゃないですか」村山が元気を取り戻して言った。「ぜひ見学させてもらいましょうよ」
 正直言うと、僕は他のシーンを見学したかった。あのシーンだけは何も知らない状態で、スクリーンで初めてみたいという思いがあった。「いや、僕は……」結構です、と言いかけたところでまた違うスタッフが入ってきた。今度は僕より少し年上の女性だった。
「監督、至急チェックお願いします。吉川さんの演技がきっかけで、他の俳優さんたちが喧嘩みたいになってしまった……」
 彼女の言葉が終わる前に、監督は僕の手を取って走り出した。「一緒にチェックしてくれ」ということらしい。こうなると不本意とも言っていられず、僕は仕方なくついて行った。

7

「あれでOKな訳ないだろう。いくら指定が少ないからって、あの場面であの台詞はないよ」
「だからそれは、脚本自体が曖昧な表現なんだから仕方ないじゃないですか。僕は責めるよりも、あの本であそこまで挑戦した彼女の勇気を買ってあげた方がいいと思うなぁ。これは彼女のための映画という側面もあるわけだし」
「いくら新人のための映画だって言っても、私が出演している以上は俺の映画でもあるんだよ!」
「みなさんすみません。とりあえず事情を説明していただきたいんですが」大沢監督が仲裁に入るまで、僕は一言も声を発せなかった。それは香凜も同じらしかった。
 というのも、口論していたのがテレビに疎い僕でも知っているような有名俳優だったからだ。1人は大路真矢。この道50年を超える大ベテランだ。そして香凜の味方をしているのが山下陽介。10年ほど前に特撮ヒーローものでデビューした俳優だ。僕たちよりも少し年上で、学生時代は毎クールドラマに出ていた。最近では少し仕事をセーブすると言っていた気がする。そんな大スター2人が僕の小説のために集まってくれたのだと思うと、今の状況を忘れて大声で泣きたくなった。
「ああ、監督か。やっと来てくれた」大路は、先ほどまでとは打って変わって落ち着いた口調になっていた。「こういうことは、役者同士で議論していてもいつまでもゴールには辿り着けない。監督の判断を仰ぐのが一番だ」そう言って、山下の方を見る。彼も頷いた。
「分かりました」監督はいきなり僕の方に視線を向けた。「こんな形で紹介するのは本意ではないんですが」そこで言葉を切る。嫌なサプライズだな、と思いつつも、ここで前に出ないわけにはいかなかった。
「『恋風邪』の原作者の松倉です。今日は撮影現場を見学に来ました。よろしくお願いします」
 まばらに拍手が起こって、案の定微妙な空気になった。おそらくみんな戸惑っていた。
「松倉先生は、今回の映画脚本も担当されています。みなさんも原作の小説と脚本がだいぶ違うということに違和感を感じておられましたよね? 松倉先生は小説が映画としても面白くなるよう、自ら脚本を書くことを望まれました」
 全員が一斉に僕に注目した。中でも大路の鋭い視線は、言葉を失ってしまうほどの威圧感があった。ゆっくりと息を吸って、彼が発言する。
「なるほど。それでは松倉先生が先ほどのシーンの判断をして下さるということでいいんだね?」
「はい。そういうことです。実を言うと今日のシーンは、こういうことになるだろうと予想できていました。だから先生に来てもらったわけです。というわけで先生、あとはお願いしますね」
 僕は監督と初めて顔を合わせた時から、なんとなくこういう展開を予想していた。しかし村山さんは寝耳に水といった表情だ。「そんな急に言われても」と1人で焦っている。説明してあげたかったけれど、今はそんな時間すら無駄なように思われた。「村山さん、大丈夫だから」いつもより低い声を出した。そして演者たちに向き直る。
「みなさんが揉めているのはおそらく、ラストシーンですよね? ヒロインの夢香が殺されるシーンの最後の台詞。そこでみなさんの意見が分かれた。違いますか?」
「そうですよ」声を上げたのは山下だった。「あなたが曖昧な脚本を書くから、みんなシーンの解釈がバラバラなんです。どれが正解なのか分からない。それに、吉川さんはさっきから全然議論に参加しようとしない。これじゃあ埒が開かない、というわけです」
「分かりました。ではこれから大沢監督と一緒に問題のシーンをチェックさせていただきます。ただし、私の判断を監督のそれと同じように尊重していただきたい。よろしいですか?」
 全員が頷いたのを確認してから、僕たちはモニターの前に移動した。

8

 ラストシーンというのは、僕が一番気合を入れたところだった。原作小説と映画脚本とで、一番印象を変えたシーンでもある。
 夢香が恋人に毒殺されるシーン。彼女は死ぬ直前、自分を殺した恋人にある言葉を残す。その言葉を小説ではあえて書かなかった。「夢香の最後の言葉を知っているのは、俺だけでいい」というふうに締めた。しかし映画で同じことをする気はなかった。
『アドリブで一言』とだけ書いたのだ。感情を説明するト書きのようなものは一切つけなかった。香凜がどんな言葉を選ぶのか、僕と彼女との勝負のようなつもりでいた。

 モニターの中で、ラストシーンが始まる。カメラは香凜の表情を捉えていた。
「誕生日おめでとう。君の生まれ年のワインだ。2人きりでお祝いしたくてさ」恋人役の山下の台詞だ。若いとはいえさすがは俳優で、本当に香凜の恋人のようだった。少し嫉妬すら覚える。
「さあ、乾杯しよう」山下がグラスにワインを注いだ。毒はボトルにあらかじめ入れられているという設定だ。
「そうだね。2人の記念日に、乾杯」2人ともグラスを傾ける。しかし山下は一切口をつけていない。こういうところをきちんとやるのが役者というものかと感心した。
 香凜は一瞬だけ、口元を緩めた。「とても美味しい」と言おうとしたようだが、「とても」まで言ったところで電池の切れた玩具のように静止する。
「うっ!」苦悶の表情を浮かべた直後、香凜の呼吸が荒くなり始めた。激しく咳き込み、椅子から崩れ落ちる。
 と、ここまでは台本に細かく行動まで指定しておいた。問題はこのあとだ。
 山下は無言のまま香凜を見つめている。この後の彼女の台詞が、アドリブ部分だった。そして彼女は息を切らし、時に咳き込みながら、10秒ほどかけてこう言った。
「ありがとう。ごめんね……」
 この言葉を最後に彼女は喉元を押さえ、しばらく身体を痙攣させたあと動かなくなった。
 ここで助監督の「カット」の声がかかった。

「どうですか先生。何か意見はありますか?」
 僕は思ったままを述べた。
「僕が描いていた理想の映像です。よくぞ汲み取ってくれたと思います。このシーンを演じてくれた2人はもちろん、すべての関係者に感謝したいです」
 改めて全員の顔を見回した。大路も、山下も、晴れやかな顔をしていた。
「どうやら、君がこのプロジェクトに選ばれたのは運命だったようだ。確固たる信念があるんだね」
「え?」僕はパニックになった。
「実は君を試させてもらったよ」大路は続ける。「我々役者もスタッフも、彼女の演技には衝撃を受けた。でも君の脚本の描写は曖昧。だからあの演技を見て君がどういう反応をするか見たかった」
「つまり、僕は騙されていたんですか? みなさん一切揉めてない?」
「そういうことよ」いつのまにか香凜が隣にいた。
「私が浩一くんのことを信じて、今回のことを皆さんに持ちかけたの」本名で呼ばれるのも、君付けで呼ばれるのも久しぶりでうまく反応ができなかった。続いて山下が口を開く。
「まあ、僕たちだってプロだからね。選んでもらったからには、自分の仕事は全力でやる。でもプロとして仕事をする以上は、周りの人間にもプロであってほしい。今回は先生がプロかどうかを見せてもらったんだよ」
「でも僕は、まだプロなんて名乗れるレベルじゃありません」
「技術の問題じゃないんですよ、先生」大路が敬語で話してきた。さっきとは違ってとても優しい目をしていた。
「私たちが求めているのは、プロ意識です。あなたが作った小説や脚本に確固たる信念があるか、ということです。あなたは私たちの言い争いに遭遇しても、自分の意見を変えませんでしたよね。例えば、私の意見の方が正しいのではと思ったことはありませんでしたか?」
 考えてみればそんなことは一切なかった。僕は最初から香凜の演技を信頼していた。だってあれは香凜のために作った作品だったから。
「それでいいんですよ」大路は頷いた。「自分の作品に自信が持てない表現者なんて、この世に存在してはいけない。お客様に失礼だ」
 大路のこの言葉をきっかけに、スタジオは拍手に包まれた。僕と香凜は、現場のみんなにプロと認めてもらえたのだ。2人がプロの表現者としての道を歩き始めた瞬間だった。

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