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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 30

第三楽章 シューマン、ブラームス...そしてクララの物語 

3.別れ・・・そして

 クリスマスが近づき、クララは途中まで迎えにきてくれたブラームス共に懐かしい我が家に帰ってきました。
「お母さま、お帰りなさい!」
 家にたどり着き、子どもたちの笑顔を見ると、クララは旅の疲れも苦労も吹き飛ぶ思いがしました。

「ぼく、こんなに大きくなったよ」
「字が書けるようになったの」
「ヘル・ブラームスがお父様の曲を教えてくださったのよ。あとで聴いてね」「お母さまお土産は?」

 にぎやかな我が家ですが、いつも静かにほほえんで家族を見守ってくれたロベルトの姿はありません。ブラームスは子どもたち一人ひとりに心のこもったプレゼントを贈り、クララのために子どもたちにピアノを演奏させて、皆が少しでも寂しさを忘れて心休まる時間を作ろうとつとめるのでした。

そして迎えたクリスマス当日。夜になってヨアヒムが飛び込むようにやってきました。
「まあ、どうしたのヨアヒム、こんな夜に・・・」
「今、病院でシューマン先生と会ってきました!
 少しでも早く先生の様子をお伝えしようと思って、急いでやってきたのです」「ありがとう・・・話を聞かせてちょうだい」

 ヨアヒムの報告は、クララには何よりのクリスマスプレゼントになりました。優しい二人の青年、ブラームスとヨアヒムに感謝しながら、クララのシューマンへの想いは募るばかりです。

 しかし、それでもお医者さまはクララとシューマンが会う事を許してはくれなません。クララは、直接会うことができない悲しさと一日でも早くロベルトがもとの体に戻ることを祈って、毎日のように押し花を作ります。旅先でも綺麗な花を見つけては押し花を作る事が、この頃のクララの日課であり、慰めになっていました。

 そして、新しい年を迎えるとクララはまた、子供たちとも離れて演奏旅行へと旅立っていくのでした。

 そんなクララの代わりに、今度はブラームスがシューマンとの面会を許されました。久しぶりに会うシューマン先生は、すこしやつれたものの落ち着いて、ブラームスも少しは安心します。
「先生、今日はタバコとインク、それと奥様の写真を持ってきました」
ブラームスがクララの写真を手渡すと、シューマンは涙で目をいっぱいにして「ああ、どれほど長く望んでいたことか・・・」
と、クララの写真から目を離しません。

「ありがとう、ヨハネス。煙草もインクも助かるよ。
 クララの事、子供たちの事をきかせてくれ」
「もちろんです」
二人は、長い間様々な話をして過ごします。
「先生、これはぼくが作曲したソナタです。見て頂けますか?」
「うん。なかなか良いね、
でもここは少し変えた方が良いかもしれない」
シューマン先生は昔のように熱心に楽譜を見て下さいます。

「先生は最近なにか作曲されたのですか?」
「フーガを作ったよ。まだ完成していないが・・・。
 そうだ、一緒に連弾をしよう。私が低音パートを弾こう」

 二人は久々に並んでピアノに向かいましたが、以前のように上手に合わせるという訳にはいきません。それでも、久しぶり人と合わせて弾いた事はシューマンの心を慰めた事でしょう。

 病院を後にするブラームスを、シューマンは途中まで見送り、二人は抱き合って別れを惜しみました。誰よりも尊敬するシューマン先生と過ごした時間は、ブラームスにとっても夢のようなひとときでした。
 その興奮が冷めないうちにとブラームスはペンを取ってクララに報告の手紙を書くのでした。

「最愛の友よ」
そう書き始めてある手紙を受け取ったクララは、繰り返し読み胸を熱くしました。
「ヨハネス、ありがとう。あなたのおかげよ。あなたに会いたいわ」
 デュッセルドルフと旅先で、ブラームスとクララはお互いの手紙を今日か、明日かと待ち望んでいました。ブラームスにとってはクララが、クララにとってはブラームスが何よりの心のよりどころでした。

 ことに、ブラームスはクララへの想いがますます膨らんでいくのをおさえることができません。時にはクララの演奏旅行先に顔をみせて安心させ、時には一緒に気分転換の遠足に連れ出し、そして子どもたちを寝かしつけ、遠足に連れて行ったり、字を教えたり、出来る限りの事をしてクララの力になろうと尽くすのでした。

「愛するクララ」
いつしか、ブラームスは手紙でそうクララに呼びかけるようになっていました。「あなたへの愛がどれほど深いかわかってください」
「ぼくは日ごとにあなたを前より愛しています」
「ぼくのクララ、あなたを慰める事のほかには何も望みません。
 あなたは何と多くのものを私の心から奪ったのでしょう」

 見知らぬ土地で一人孤独な戦いを続けるクララを想う時、ブラームスの心には熱いものがこみあげてくるのです。そしてそんな熱い心の詰まった手紙は、旅先で不安と寂しさに震えるクララにとっても大きな心の支えになっていたのも確かでした。

 一方で、シューマンからの手紙や、病院からの報告はクララの心に影を落とすばかりです。
「私のクララ、何か恐ろしいことが待っているような気がする。
 お前にも子どもたちにも二度と会えなくなったらどうしよう」

 シューマンの病状は、とても快方に向かっているとは思えませんでした。調子の良い時は作曲をしたり、ピアノを弾いたりしていましたが、そのうち知っている都市の名前をアルファベット順に書きだす作業に没頭し、わけのわからない事を話すので、お見舞いに来たブラームスの気持ちも暗くなります。

 そして、5月のブラームスの22歳の誕生日に届いた手紙を最後にシューマンからは何の連絡もなくなってしまいます。
「ロベルト、一言で良いから返事をちょうだい」
クララの訴えるような手紙にも返事はありませんでした。

 シューマンの心がどこにあったのか、どれほどの事が理解できていたのか、知ることはできません。彼は亡くなる少し前にあれほど愛したクララからの手紙も、病院で作った曲もすべて燃やしてしまいました。

 こうして入院してから二年が過ぎ、3度目の夏を迎えた1856年7月23日、ついにクララのところへ恐れていた知らせがきました。
「シューマン氏、キトク、スグニ帰ラレタシ」
 電報を受けとったクララとブラームスはすぐにエンデニヒに駆けつけます。
ブラームスはヨアヒムにもすぐ来るように電報を打ちました。

 7月27日。
 クララが二年半ぶりにようやく会うことができたシューマンは、別人のようにやつれ、意識ももうろうとして、とても昔のロベルトと同じ人には思えません。 けれど、クララがワインを飲ませようとすると、最後の力をふりしぼってクララを抱きしめ
「クララ、わかっているよ」
と、つぶやき、また眠りにつきました。
あんなに深く愛し合っていた二人ですが、共に過ごせる時間はもうありません。
 
 7月29日。
 クララがヨアヒムを迎えに駅へ向かっているわずかの間にシューマンは一人静かに息を引き取ってしまいました。
「ようやく私のところに戻ってきたのね」
長い苦しみから解放されて穏やかに眠るシューマンをクララは優しく抱きしめるのでした。

 シューマンが亡くなったという知らせは、多くの人を驚かせ、そして悲しませました。
 二日後。シューマンはボンのシュテルネントーアにある墓地に埋葬されることになりました。棺の後ろをブラームス、ヨアヒム、ディートリッヒが歩き、ボン市長が後に続きます。ヒラーもケルンから駆けつけました。クララは葬列の後ろを目立たない様に歩いていました。その方が愛するロベルトに寄り添えるような気がしたのです。
 大勢のボン市民に見守られて棺は墓地におろされました。

 デュッセルドルフに着いたとき、歓迎の歌を歌ってくれた合唱団が今回もシューマンのために歌を捧げ、ヒラーが哀悼の言葉を述べてくれました。静かなセレモニーが終わり、シューマンの肉体は土の中に消えてしまいました。

 しかし、クララは、一緒に暮らしていた時のように、
またお互いを想いながら離ればなれになっていた結婚前のように、
そして、兄と妹のように過ごした幼い日々のように、
シューマンの魂がまた自分の側に戻って来たような気がしていました。

「今日から私の新しい人生が始まるのね」
 35歳のクララには15歳から2歳までの7人の子どもと、シューマンが作曲した名曲の数々が残されました。彼女は生涯をかけてその「子どもたち」を守り、育てていくことになります。音楽は天国と地上に別れても。シューマン夫妻をいつまでもつなぐ絆になっていたのです。

「でも、ロベルトのいない世界で、どうやって生きて行けばよいのかしら」
 ひとりたたずむクララを、ブラームスが複雑な思いをかかえて静かに見守っています。

クララ・シューマンの新しい楽章が始まろうとしていました。

※写真はエンデニッヒのシューマンハウス (入院していた病院)

シューマン夫妻の墓所


・エピローグ

 シューマンの生きた時代は、ロマン主義とよばれる芸術が大きく花開いた時代でした。
 シューマンの生まれる20年ほど前に起きたフランス革命は人々の意識を大きく変えます。自由を知った人々は、芸術の上でも形式にとらわれず自分の感情を表現するようになり、見知らぬ国や、想像の世界へも思いをはせるようになりました。特にドイツではゲーテやシラーなどの作家が激しい感情や燃え盛る想いをそのまま文学に表現、「疾風怒涛」と呼ばれる作風が人気を集めていました。

 幼い頃から文学に親しんでいたシューマンはその影響を大きく受けて、音楽の上で「ロマン主義」を表現しました。
 文学からヒントを得たイメージや自分の想いを直接表現するためには、ソナタや交響曲などの「形式」にはおさまりきれず、例えば「クライスレリアーナ」とか「蝶々」といった標題を持つ自由なスタイルの曲をたくさん作曲しました。
 その一方で、バッハやベートーヴェン、シューベルトなどの先輩たちが築いてきたドイツ音楽の伝統を守る事もわすれませんでした。
 
 得意のペンを生かして、音楽評論という新しい分野を確立したのもシューマンの大きな功績の一つです。
 
 もう一つ、シューマンの音楽を語る上で欠かせないのは、クララとの愛でしょう。
 そのドラマチックな恋物語と、クララへの強く深い愛は多くの名曲を生み出しました。素晴らしいピアニストだったクララのおかげでピアノの名曲たちが誕生したことも忘れてはなりません。

 父であるヴィーク先生は、クララのピアニストとしての未来が閉ざされることを恐れてシューマンとの結婚を反対しましたが、結果的にはクララ・シューマンとなったことで、彼女の名前は音楽の歴史に大きく名を残すことになりました。

 シューマンが紡いだドイツロマン主義の音楽はクララとブラームスに引き継がれ、最後の輝きを見せることになります。

 クララとブラームスの本当の闘いは、シューマンの死によって始まろうとしていました。

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