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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 28

第三楽章 シューマン、ブラームス…そしてクララの物語

2、運命

 ブラームスが去って火が消えたように寂しくなったシューマン家ですが、実はブラームスと過ごした楽しい日々の裏側で、音楽協会とシューマンの間は、とんでもない事態になっていました。

 と言うのは、シューマンが指揮をした10月半ばの教会での演奏会が大失敗で、怒った合唱団はもうシューマンの指揮では歌わないと言いだしたのです。シューマンは自分の世界に入り込み過ぎて、もう他の人の指揮をすることが出来ない状態になっていたのです。音楽協会の理事はクララを訪ねてきて
「どうでしょう、これからシューマン先生にはご自分の曲だけを指揮するようにしていただくことにしては・・・。ご心配なさらなくても、あとの事はタウシュさんが引き受けてくれますから」
と、提案しました。
 
 しかしクララは納得できません。彼女にとってシューマンの才能は絶対的なものだったのです。
「これはタウシュの陰謀だわ。ロベルトに取って代わろうとしているのよ」
と怒り、シューマンもまた納得できないと練習にも演奏会にも出かけず、音楽監督としての仕事を放りだしてしまいました。
「もうこんな所には居られない。ウイーンかベルリンで暮らそう」
夫妻はそう考えていました。

 音楽協会とのトラブルが解決しないまま、年末にかけて夫妻はオランダに演奏旅行にでかけました。どの街でも夫妻は大歓迎され、演奏会で演奏されたシューマンの交響曲も、クララのピアノも、そして彼女が弾くシューマンの曲そのものも熱烈な拍手を受け、夫妻は久しぶりに幸せな気持ちを味わいました。

 そして1854年が明けると、今度はヨアヒムが住むドイツのハノーファーに向かいます。ここでは「楽園とペリ」が演奏され、ヨアヒムの指揮で交響曲第4番が王様の前で演奏されました。ヨアヒムは優秀な指揮者でもあったのです。

 ヨアヒムは、シューマンが彼のために作った「ヴァイオリンのための幻想曲」
(作品131)でもソリストをつとめ、一方クララは、ヨアヒムの指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」を演奏して割れんばかりの拍手をあびました。
客席にはもちろんブラームスの姿もありました。

 気の合う者同士、音楽会は勿論、音楽会の後も4人は話が尽きません。
すべての演奏会が終わり、シューマン夫妻を駅まで送ったヨアヒムやブラームスに、二人は世界一幸せな夫婦に見えたのでした。

 ところが、ハノーファーから帰って間もなく、シューマンは激しい頭痛に襲われます。
「音が聞こえるんだ。同じ音が・・・ああ、ずっと鳴っている」
 そう訴えて、シューマンは眠る事ができません。
「あなた、何も音はしていませんよ。大丈夫私がここに居ますからね」
 クララはつきっきりで看病し、眠らずに話しかけ、なんとかシューマンの心を落ち着かせようと努力しますが、状態は悪くなるばかり。
次は、一つの曲がフルオーケストラで鳴り響くと言い、シューマンを休ませません。彼は突然起き上がって五線紙に向かい、音符を書きつけます
「天使が歌って聞かせてくれたんだ。ほら、そこに天使が居る」
と、天井を見つめます。かと思うと今度は
「天使が悪魔に変わった。恐ろしい音楽で私を地獄に落とすと言っている。
ああ、クララ。もしかすると私は君にひどい暴力をふるうかもしれない」

と、訴えるのです。
そのうち気分がおさまると、「天使が教えてくれた」メロディをもとに美しい変奏曲を作り始めます。
シューマンの神経は疲れ切り、もう切れる寸前まで来ていました。
そしてついには
「これから精神病院に行く。クララ、着替えを出してくれ。
 時計、ペン、ノート、お金も持っていかなくてはいけないな」
と、言いだして、冷静に入院のための準備を始めたのです。
「あなたは私や子供たちをおいて行ってしまうつもりなの?」
クララが取り乱してすがっても、シューマンは冷静に
「大丈夫だよ。すぐ治って帰ってくるからね」
と、いつもの様に静かに答えるだけです。

 クララはもうどうしたら良いかわかりません。
「とにかく絶対に目を離さない事。私が言えるのはそれだけです」
お医者さまもお手上げです。

 そして、運命の2月27日の朝。
 付きりで看病していたクララは、長女のマリエを呼びます。
「マリエ、私はお医者様とこれからの事をご相談するから、あなたは私の代わりにお父様の寝室のそばに居てちょうだい。お父様の様子がおかしかったらすぐに呼んでね。」
「わかったわ」
夫婦の結婚一年目に生まれた長女のマリエはもう13歳になっていました。

 クララが部屋を離れてしばらくすると、シューマンが部屋から出てきました。「あ、お父様」
子供たちが大好きな緑色の部屋着を着たシューマンは、マリエの姿を見るとまたくるりと向きを変えて寝室に戻ってゆきます。
「どうたのかしら。お父様のお顔が真っ白だわ」
 マリエはあまりに変わり果てたお父さんの姿に一瞬呆然としますが、
もしやと思い寝室に入ってゆくと、そこにお父さんの姿はなく、庭に向かったドアが開け放たれカーテンが風に揺れていました。
「お父さま!お母さま大変!!お父様が居ない!!」
 マリエの叫びを聞きつけたクララやお医者さまはあわてて外に飛び出します。

 そのころ、シューマンは雨ふる町をはだしで部屋着のまま外をさまよい、
いつも散歩で歩いているライン川の岸辺に寄ると、おもむろに結婚指輪を川に投げ捨て、その後を追うように川に自ら飛び込んでしまったのです。

「クララ、君も指輪を川に投げるんだ。
 川のなかで二つのリングは一つになるんだよ」
 シューマンは以前からそんな話をしていたのです。

 しかし、部屋着姿でふらつくシューマンが人目につかないはずはありません。「おーい!大変だ!誰かがとびこんだよ!」
 川に居た漁師たちが水面に広がった緑の部屋着を見つけ、あわてて救い上げます。岸辺に戻ると騒ぎを聞きつけた近所の人たちが集まっていました。
「あ、これはシューマン先生だ。音楽家の・・・。
 ほら、すぐそこに住んでいる」
と、気づきました。人々は急いでシューマンを家に運びました、

「あなた、あなた、一体どうしたというの?」
 びしょびしょに濡れ、男の人に支えられて帰ってきたシューマンを見たクララは、余りの事に興奮して今にも倒れそうです。

「クララさん、あなたが興奮しては患者さんがなおさら心を乱してしまう。
 あなたはひとまずお友達の家にでもいらしていてください、あなたも大切な身体なんだから」
 実はこの時、クララのお腹の中にはまたしても赤ちゃんが居たのです。
そのため、お医者さんはクララのため、またシューマンがこれ以上興奮しないようにするため、二人を離ればなれにすることを選んだのです。
 クララは詳しい話は聞かされないまま、友人のロザリエのところに身を寄せることになりました。

「クララさんのことは心配しなくても大丈夫ですからね」
 ベッドに運ばれたシューマンも、お医者さまからそう聞くと安心して、ようやく興奮がおさまってきました。

「先生、お願いです。病院に連れて行ってください。
 もう私は入院するしかないのです。このままではクララや子供達を傷つけてしまうかもしれない」
 シューマンはもう自分で自分を抑えられないので、その事をひたすらそれを恐れていたのです。
 彼の願いは叶えられ、3月4日朝、病院からの迎えの馬車が来ました。
行く先はボン郊外のエンデニヒにある精神病院です。
ボンはあのベートーヴェンが生まれた街。尊敬するベートーヴェンの生地の近くだという事がその時のシューマンにはわかっていたのでしょうか。
愛する夫、大好きなお父さんが家を離れると言うのに、クララと子供たちは家の中からそっと見送ることしかできませんでした。

 シューマンが馬車に乗ると、クララからの花束が渡されました。
彼は、しばらくそれを見つめると馬車に乗っていた人に花を一本ずつ引き抜いて配り、振り返ることもなくエンデニヒに向かってしまいました。

「あなた、一体どうしたと言うの。すぐに帰って来るわよね」
その花のうちの一本を受け取ったクララは、ただ立ち尽くすしかありませんでした。


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