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 心が痛み、言葉を見失ってしまう新年です。震災や事故により、大切な方との別れに身も心も引き裂かれる想いをされている方々、毎日底知れない不安の只中にいらっしゃる方々を思うと、涙が込み上げてきます。何処へ押しやったらよいのかわからない悲しみ、涙も出ないほどに凍り付いた混乱のさなか、なにか暖まるものが訪れることを祈るばかりです。
 半年前、私は大切な家族を突然喪いました。国を跨いで連れ帰ったその日、なにも知らない親友から食事の誘いが来ました。いつもの日常が自分を受け入れてくれているー日々放心状態から引き戻してくれるものは、外から届く変わらない付き合い方でした。半年ちょっと経った今、やっと言葉が戻ってきたような感覚です。触らない日など思い出せないほど毎日弾いていたピアノはショックでひと月弾けず、同じくらい自分の精神を保つために欠かせない言葉も、ぽっかり抜け落ちていきました。本当に、からっぽだった。そうして見えるものも聴こえる音も、まったく違うようになりました。
 それから思うことがあります。幼いころから多くの本に触れるなかで、蓄えた言葉も、自分が帰ってゆくテイストの表現もなんとなく決まってくるのですが、そこに大きな違いがあったことに気がついたように感じています。キリキリ、ヒリヒリ…もっとなにか、形容しがたい永久の別れ-これをまざまざと知ったことのある人と、まだ実は知らなかった人の書く文章は、完全に二手に分かれていると。
 耐え難い永久の別離について、その事実と衝撃に多く言葉が割かれている文章には、なにか違和感を覚えてしまう。声に大きさがあるように、活字であっても言葉の流れで大きさは表れます。どことなく騒がしく、興奮しがちな暴れ気味の文章には、痛みを汲むことよりも好奇が勝っている。そこには痛みを知らない残酷さが、書き手の意思の及ばない範疇で浮き彫りになってしまっているーそう思うようになり、それまたとても、腑に落ちるのです。
 ここで言いたいことは、自分に向けられた痛みではありません。自分の痛みは自分で消化していくもので、それをなにかのせいにするのはあまりに幼稚で烏滸がましいことと思っています。大切ななにかに対する痛み、これを知るか知らないか、出会うか出会わないかーさらには出会ったということにさえ気がつかない、感度の低い生き方をしてはいないだろうか。生きるうえで、問い続けなくてはいけないものです。この問いに、答えはありません。
 日々の些細な言動も大きなものを生み出します。世を去った人を語るとき、その言葉を受け取る遺族がいることを慮れるかどうか。故人の言葉を伝えたつもりであっても、ここに伝言ゲームは必要ありません。痛みをもたない善意は、痛みをもった存在をさらに追い詰めることがあります。そのような形で、悲痛な苦しみを知ってゆく人々もいるのです。言葉を扱うすべての人の心に留めておいてほしい。
 痛みを噛み締めてなお生きる人の綴る文章というのは非常に独特なカラーとニュアンスがあり、特有な静謐さを纏い-なにより限りなく、優しい。そのような書き手は別離の瞬間や直後の衝撃などに字数を割いていません。大切な存在の生き様、人となり、香り、なお残る温もりを漂わせ、ともに生き続けているのです。そう、まだまだ、温もりがある。だからよけいに哀しくて、想いは溢れてしまう。
 もちろん人それぞれの抱えるものの重みは、他者にはわからないものです。涙の隠れた笑顔ほど、明るく輝いたものなどないかもしれない。抑え込んだ想いほど、深く慈しみに満ちた愛もないかもしれない。人は目に見えるものだけで成り立ってはいない。むしろ、どれだけのヴェールを纏ってその痛みを秘めていることか。
 痛みなど、好んで持ちたいと思う人はいないでしょう。でも痛みを知ることで人間たちが辛うじて優しさを得てゆくのであれば、私たちはやはり真っすぐと痛みにも向き合わなくてはいけないのかもしれません。よく聞く言葉ではありますが、私は「生きるって大変」などとは言いたくありません。大変、とかじゃない。言葉にならないものに向き合ってゆく、ただそうとしか言えません。

 悲しみの只中にいるたくさんの方々も、どうかこれからの日々が平穏と慰めに、温かな光に、恵まれますようー心から祈っています。

クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/