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むこう側のなにか


言葉を愛する

 言葉をひとつ選ぶ。その言葉の持つ色合いと温度がより一層浮き立つことを期待して、組み合わせたい言葉をまたひとつ選ぶ。そのふたつの言葉は、ただそっと置くように並べたいときもあれば、優しく繋ぎたいこともあるし、あえて突き放すように分断させたいときもある。言葉を扱う存在ならば、誰もがそうしていると思う。言葉を大切にする人に限った話ではない。誰しもが内蔵している言葉という凶器は、これでもかとばかりに人を傷つけてきた。それは自己を最優先に考える人間が、ただ自己防衛のために、目の前にいる人物の心など思いやる余裕を忘れていったその一瞬に表面化する刃である。冷静であれば大抵の人間がコントロールできるかもしれないものも、人というのは醜いもので、理性と感情は素早い別離を辿り、制御の網を破壊してゆくことが誰しもに起こり得るのである。それに対してなんらかの嫌悪、虚無、諦観を覚えたことのある疲れた人間というのが、一定数存在する。そうした人々はその疲れを歩み、期待など手放したはずなのに一抹の光を信じ、言葉を探し出す。その疲れを得ると、むしろこの疲れを忘れてはならないという使命を抱く。そして自分の心を限りなく深く、低く、鎮めていく言葉と沈黙を、愛しはじめる。
 私は言葉が好きだ。ただ放流されたものではなくて、ゆっくりと独特に、人の心のなかから選び抜かれた言葉に触れるのが好きだ。言葉の力を信じているから、私は言葉に近付きたい。そこには「間」というものもあり、「語らない」という無音の響きもあり、「空気感」という喩えがたいニュアンスもあるのだ。私が好きなのは、音としての言葉になりきらなかった無音のむこう側の「なにか」である。これを愛する人は、話していてわかる。ああ、この人は言葉を愛する人だ。そう思える瞬間は、いつの間にか強張っていた心が溶け始める瞬間でもある。私はこの瞬間に、大きな幸福を見出している。

愛する存在

 悪夢から、半年が経った。突然かけがえのないひとは、私の住む地上から旅立った。ただただ突然のことだった。あと3年もすれば、私はその年齢を越えてしまう。混乱と放心のなかで振り絞っていた音楽は、たしかに再び私の居場所であって、全く出てこなくなっていた言葉も、やはりたしかに再び私の居場所であった。ここには、なにが起きようと壊れることのない幸福があると、信じて良いと思う。なぜなら言葉のむこう側は心の内面の近さであり、音のむこう側-それも響きの地点が遠いほど-もまた、心の内面の近さであるからだ。
 人の死に、余計な好奇や詮索など無用である。尾ひれのついた話も無用である。知らなくても良いことも、たくさんある。ただ知ったふりをしてそれを語ることが、どれだけその存在を愛してきた者を傷つけるのか、経験しなくては到底わかり得ない。世のなかには、人の棺の写真まで撮る人間もいるのだ。もしこれを読んでくれた人がいるならば、写真は決して人を傷つけないように使ってほしい。心が、抉られる思いだった。今でも頭がクラクラする。私はその死について語らない。それを消滅にも決してさせない。ただ、美しいひとがいた、懸命に生きたひとがいた、そのひとがもたらした優しさで生きている私のような人間もいる-ということを、私が生きている間は、消えゆくことがないようにしたいのである。それを紡ぐ方法が、私にとっては音を奏で、言葉を綴ることなのだ。
 私は心を大事にするものが好きだ。美しいものは美しい、というのが好きだ。自然の景色を眺めるのが好きだ。人にできることなど砂粒のようなものだ、と思うのが好きだ。そうしてまっすぐ、一歩を重ねてゆくのが好きだ。

クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/