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北の屋台

「やっぱり、今でも『北の屋台』が人気あるんじゃないですかね?あんまり街に行かないからわからないですけど」現地の人に帯広で良さそうな飲食店について尋ねてみると、こんな答えが返ってきた。なんの前情報もなく所用を終えた私は、全国的にも有名らしい『北の屋台』すら一体どういったものかも知らないまま、帯広で酒を飲もうとしていた。

私は、屋台やバラックの飲み屋がごく普通に街の一角に存在していた最後の世代の人間だ。祖父母の家は他の路線に乗り換えられず、よって大した賑わいもなかった大阪環状線のとある駅が最寄りだったが、夜のガード横には、おでんの屋台やトタンでこしらえたスタンドが軒を連ねていた。『田吾作』と書かれたのれん、その一角に漂っていた食べもののにおい、酔客の歌声、今でも鮮明によみがえる。屋台やトタン造の店が急速に姿を消したのはバブルの頃だったが、子供心に街がきれいになってよかったな、と、そんな店で生計を立てていた人の事情を考えられる程できた子供でもないので、そう無邪気に思ったものだ。それでも、子供と大人の境目の歳の頃には、幼少期の思い出の中の街は、屋台だったり、お世辞にもきれいとは言えない店や建物だったり、幼い頃は全く好きではなく、むしろ怖いものとしてとらえていた風景ばかりが断片として浮き上がってくるようになっていた。結果として、さまざまな時代を乗り越えて続く古い飲食店に強いあこがれを持ち、足がむく大人になってしまった。

一方で、昔ながらの屋台が姿を消し、それとともにバブルも崩壊して失われた時代に入った平成初期の日本には、「屋台村」ブームというものがあった。今、インターネットでさっと検索してみてもその頃の情報や写真がほとんど見当たらなくて、1993年に一応仕掛け人らしい人が、池袋西口のビルの谷間に『池袋屋台村』を開店、その後フランチャイズ展開した、という情報くらいにしかたどりつけないことにも驚いたが、おそらく屋台をなつかしむ層だけでなく、バブル崩壊で懐の冷えた勤め人をターゲットに成功したのだろう。屋台とはいっても、ひとつの飲食店内で疑似的な屋台として区切られた区画がならんだような構成で、これがなぜか人気を博し、模倣店もふくめるとちょっと大きな駅の近くにならどこでも「屋台村」があったように記憶している。今に続く「昭和レトロ」ブームの先駆けともいえるが、この流行りはしぼむのが早く、二十世紀の終わりにはもはや風前の灯となっていたため、私がこの形態の店を積極的に利用することはなかった。

話を帯広に戻すと、この『北の屋台』は、一時的な「屋台村」隆盛の後、今まで息長くつづくネオ屋台(村)ブームのさきがけらしい。2000年、中心市街地の空洞化に見舞われていた帯広を活性化しようと、地元の青年有志の発案で始まった『北の屋台』は、草の根ですすめる中心市街地活性化のモデルケースになったとのことである。たしかに、息の長い「昭和レトロ」ブームに、めっきり街で飲まなくなった酒飲み、そしてますます寒くなる日本の勤め人の財布、これらから導き出された最適解が、一軒あたりの単価は安く、アルコールで気の大きくなった酒飲みをとなりの店へとはしご酒させるということなのかも知れない。東京ですら、たとえば大塚駅前に屋台風ともいえる飲食店街が大手資本によってつくられるような状況だから、不況にあえぐ地方都市であればなおのこと、那覇や熊本の屋台街がまさにこの時流に乗って観光客を取りこみ地域経済の活性化にもつなげようとしているのだろう。中心市街地の活性化、それは日本全国の地方都市で唱えられ、そうはいっても超高齢化人口減少社会の日本、どうしようもないよ、と対策のための対策ばかりが目だつお題目だが、酒と「昭和レトロ」の力を借りてでもなんとかしたいという地元の青年(といいつつ、実は中年が大半だったりする訳だけれども)たちの切実な思いは、痛いほどわかる。

結局、『北の屋台』では二軒のお店に伺った。店の名前や何を飲み食いしたのかはもう今となっては覚えていない。ビールにおでん、豚の串焼を食べたような気もするがどうだっただろうか。ただ、このはしご酒は、近年作られた屋台街におしなべて否定的な感想を抱きがちだった私が、それは固定観念にとらわれたつまらない考えなのだと、自分自身のものの見方が間違っていたことに気づくきっかけとなった。『北の屋台』は、観光客ではなくむしろ地元のお客でにぎわっていて、友人、恋人、仕事仲間、あるいはひとり飲みと、みんなが思い思いの時間を楽しんでいた。昔ながらの酒場やバーに入る勇気のない人の需要を取り込み、お客のついた屋台は、契約年数のうちに屋台街を卒業して帯広の地に店を構える。理想論かもしれないが、そんなコンセプトがうまくまわれば、従来の夜の街を圧迫することなく新たな需要を掘り起こすことも可能だろう。そもそも、元手に乏しいけれど飲食で身を立てたくて『北の屋台』から始める店主は、着の身着のまま無一文で日本に帰ってきて屋台でギョーザを焼きはじめた戦後の引揚者の姿と重なるし、中心市街地の空いた土地に地元有志の発案によって新たにつくられたといういきさつも、戦後の焼け野原を顔役が絶妙に仕切って闇市の屋台街や急ごしらえの飲食店街が形成されてきた、日本の歴史そのものではないか。

何のことはない、企業が仕切っている屋台街の類いには、その隠しきれないフェイクな仕組みに鼻白むだけであって、『北の屋台』はそれとはまったくの別物という、ごく当たり前の話に行き着いた。なにしろ、『北の屋台』の成り立ちは、かつて戦後に屋台街がつくられるに至った人々の営みを、そっくりそのまま、しかも無意識のうちにたどっているようなものなのだから。うわべだけの「レトロ」「風格」なんてものはまったく重要ではない、もう二十年もすれば、屋台街としての風格も味わいもボロさも自然と備わるから、あとはただただ末長く、みんなに愛される場として続いてほしい。

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