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一首評:山田富士郎「異界の橋」より

蛞蝓をカナッペにのせ食べるひと橋のあなたの花の宴に

山田富士郎「異界の橋」より(『羚羊譚』収録)

ずいぶんとグロテスクなうたである。

あまり馴染みのない文字にまず目が引きつけられるが「蛞蝓」は「なめくじ」と読む。食用のものは聞いたことがないし、寄生虫だらけなので間違っても食べてはいけないと言われている蛞蝓。

そんな蛞蝓を「カナッペにのせ」て食べる光景は生理的にかなり気色が悪く非現実的だ。常識的に考えれば虚構、あるいは「蛞蝓」のような何か(塩辛とかあるいは貝類の何かか)を食べている景と見るべきだろう。

「蛞蝓」をのせているのが「カナッペ」というのも面白い。これは私だけの感覚かもしれないが、「カナッペ」という響きには、どこかキッチュさやダサさがつきまとう(この短歌が読まれた約20年ほど前ならそんなことはないのかもしれないが)。

もしかすると、田舎者を揶揄する言葉である「かっぺ」に引っ張られているのかもしれないが。

さて、そんな「カナッペ」に「蛞蝓」をのせて食べている人がいる現場はどこだろうか。それは下の句で明らかになる。

下の句では「橋のあなたの花の宴に」とある。これだけでは場所は特定し難い。しかしこの短歌が含まれている連作には、こんな短歌も含まれている。

二重橋疾く駆けぬけて妻を呼べきぎすよきぎすわがまぼろしに

山田富士郎「異界の橋」より(『羚羊譚』収録)

二重橋」と言われて真っ先に頭に浮かぶのは皇居の中にかかる通称「二重橋」、正式名称・正門鉄橋だ。皇居一般参賀の時以外は、通常、一般人はこの橋を渡ることはできない。

もちろん長崎の眼鏡橋のような、別の二重アーチ構造の橋の可能性もなくはない。しかし同一連作中には「『国旗』に寄す」という詞書とともに、こんな短歌も出てくる。

立つてゐろ二年か三年すはだかで御子様ランチのライスの上に

山田富士郎「異界の橋」より(『羚羊譚』収録)

ここまでくれば、明らかに山田の視線がどこを向いているかは明らかであり、「橋のあなたの花の宴に」とは、二重橋の向こうの皇居の中で行われる花の宴、すなわち園遊会のことであると言っていいだろう。

園遊会という場で蛞蝓をキッチュなカナッペにのせて食べるひと……これは色々な意味でかなりグロテスクな情景だ。

この情景を借りて山田は、天皇制、というよりはそういうシステムにまとわりつく澱のようなもののグロテスクさへの強烈な批判を、詠もうとしたのではないだろうか。

さて。

これでこの一首評を終わらせてもいいのだけれども、もう少し踏み込んでみたい。「蛞蝓」という文字についてだ。

この「蛞蝓」という文字、どちらの漢字も虫偏であることは一目瞭然だが、それぞれの文字の旁(つくり)に、声に出して喋ることに必要不可欠な「」、そして比喩の「喩」の文字と同じ「」があることを偶然と片付けていいのだろうか。

もちろん「それは偶然だ」で終わらせてもいいほどの符合だと私も思う。

しかし私には、声に出すことと比喩という短歌に関わる文字を、背後に見え隠れさせているようにも思えてならないのだ。つまり「短歌と天皇制」に関する思いを背後に薄く見せようとしているのではないだろうか。

山田富士郎は、エッセイ「歌会始と私」などを読むに、「歌会始」に対して強烈に批判的というわけではない(「死ぬまで無関係でいたい」とは書いているが)。

しかし「歌会始」のような場で(皇居で)詠まれる(選ばれる)短歌が、権力に阿るようなうた、ファシズムを肯定するようなうた、「蛞蝓」のようにグロテスクなうたになったとしたら……そういう未来は来ないと、誰が言い切れるだろうか

このような読みの可能性もまた、(天皇制に限らず)権力や象徴というものにまとわりつく澱のようなものへの山田の批判的視点を踏まえれば、ありうるのではないだろうか。そう私は今考えている。

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