一首評:鹿ヶ谷街庵「2023年2月5日 うたの日(題:デー)」
読み進めるにつれ、寂寥の「役」が上乗せされていくような短歌。
上の句では「淋しさ」「象徴」「赤飯」とサ行音が繰り返される。サ行音は爽やかな音でもあるが、この場合はすきま風のような空虚さを作り出していると思う。
下の句では一転して「おにぎり」「我が」「バースデー」と濁音の多さが目立つようになる。しかしここでの濁音は力強さを演出するようなことはなく、空虚が濁っていくだけのように思う。
この上の句と下の句の音の質感の対比がまず面白い。
そしてそれ以上にこの短歌の面白さの力点は、赤飯の持つ祝祭性が裏返る瞬間だ。
「赤飯」だけならめでたさを感じさせる単語のはずである。しかし、「赤飯のおにぎり」となった瞬間に雲行きがだいぶ怪しくなる。めでたい席で食べる「赤飯」の大半は「おにぎり」の形をしてないからだ。
さらにそれが「買う」となるとさらにめでたさから遠くなる。手作りの赤飯ではなく、買ったものだとわかる瞬間の侘しさ。しかも「赤飯のおにぎり」が良く売られているのは、コンビニだ。この「赤飯のおにぎり」を「買」った場所もおそらくは孤食の象徴のようなコンビニだろう。
そしてとどめは「我がバースデー」だ。「赤飯のおにぎり」は「買」って手に入れたもので、しかもそれがせめて誰かを祝うものならまだしも、自分自身を祝うためのものである、と一目でわかる言葉だ。
「赤飯」だけでなく「おにぎり」も「バースデー」も愉快に感じる単語のはずなのに、この組み合わせが読み進めていって明らかになるにつれ、麻雀の役が増えていくように、寂寥の「役」が増えていく。
三句目以降で淋しさは十分に表現されているから、初句と二句目で「淋しさの象徴みたいな」とまで言うべきかどうか、若干迷うところもあるが、言葉の巧みな組み合わせで孤独な人物像が浮き上がるような良い短歌だと思う。
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