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一首評:山田富士郎「地の塩」より

橋ひとつ旧りつつ橋の左岸より右岸へ町の盛り場うつる

山田富士郎「地の塩」より(『羚羊譚』収録)

ひとつの街の変遷や栄枯盛衰がクールに描写された短歌だと思う。

さらにこの短歌は、わたしの故郷である新潟市という街を知っているかどうかで読み取れる情報量が大きく変わってくるように思う。

作者の山田富士郎は新潟市に生まれ、大学進学などで一度は東京に出つつも、また新潟県に戻り、現在も新潟県内在住とのことである(第三歌集の『商品とゆめ』の奥付けによれば新潟市より少し北東に位置する城下町・新発田市在住らしい)。

この短歌の中には具体的な地名は出てこない。しかし、盛り場を有するほどとの規模の街で河口近くにあり、しかもかかっている橋と盛り場の変遷の位置関係から、これは新潟市中心部のことを描写していると思う。

信濃川が海へと流れ込む位置に新潟市はある。2023年現在、河口近くにはいくつか橋がかかっているが、この短歌が読まれたと思われる時期(1990年代)にすでに存在し、かつ1964年の新潟地震でも破損・陥没することなくそこにあり続け年月を重ね続けた橋は、「万代橋(ばんだいばし)」のみである。

だからこの短歌で出てくる「橋」とは「万代橋」のことであろう(2004年に表記が「萬代橋」に変更されたが、この歌集が出た当時の表記である「万代橋」をここでは使うことにする)。

この「万代橋」から河口を向いて眺めるとその左側、つまり左岸には「古町」と呼ばれる昔からの繁華街(銀行の本店・支店も集積しており金融街・ビジネス街の顔も持つ)がある。

そして、「万代橋」から河口を向いて眺めて左側、つまりは右岸には「万代シティ」と呼ばれる繁華街が存在する。こちらは新しい繁華街でモータリゼーションにも対応しているような街だ。

1980年代から2000年までの新潟市を知っている世代は、この「古町」から「万代シティ」へと「盛り場」が移っていくプロセスを、本当に間近で見てきたのだ。

新潟市およびその近隣のエリアに生まれ育った人間にとっては、1980年代までは「街へゆく」と言えば、新潟市のしかも「古町」へ行くことと同義だった。

そこにはかつてデパートが2つ(「大和」と「三越」)もあり、新潟市内で一番大きく歴史もある書店「北光社」も古町にあった。すぐ近くには白山神社や、魚や野菜の露店も立ち並ぶ本町通もあり、「そこへ行けばすべてがある」ような街だった。

しかし、バブル期の頃から、繁華街は少しずつ「万代シティ」の方へと移っってゆく。特に若者向けの店は「万代シティ」の方に多い印象で、私も高校時代、遊びに行く場所としては「万代シティ」の方を選びがちだった。街の中心をなしていたのはスーパーの雄・ダイエー。「デパートからスーパーへ」という日本国内の商業の大きな流れを具現化したような話である。

80年代後半(だったと記憶している)に伊勢丹や紀伊国屋書店が参入してきたのもこの「万代シティ」だった。

そんな、新潟市という都市の10年か20年ぐらいの時間の中での変遷を、あたかも「旧りつつ」ある「橋」(おそらくは万代橋)がそれを見守るかのように描くことで、端的にそしてクールに描写していると思う。

新潟市をよく知っていれば色々と思いを馳せつつ読める魅力的な短歌である。それと同時に、知らない人にとっても「街というものが有するダイナミズム」を肌感覚を持って感じさせる短歌となっているなのではないだろうか。

ちなみに、この短歌が収録された山田富士郎の第二歌集『羚羊譚』が出版された4年後の2004年にはダイエーは産業再生機構の支援を受けることとなり、2005年に万代シティのダイエーは閉店。そのほかの建物も老朽化が進み、ランドマークでもあったレインボータワーも2018年には撤去された。

あの頃の勢いは今の「万代シティ」にはあまりなく、逆に「古町」の方が再開発などのテコ入れで息を吹き返している印象もある。

もしくはまた別の場所が中心地になりつつあるのかもしれないし、地方都市・新潟市全体が地盤沈下していることも事実だろう。

故郷の街の栄枯盛衰に遠くから思うところは多い。そしてこの短歌はそんな感情も揺り動かしてくる。


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