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書評:まるでボルヘスのような|中島敦『中島敦全集1』ちくま文庫/1993

教科書で出会う中島敦といえば『山月記』である。私も中島敦の作品はこれしか読んだことがなかった。「真面目な寓話」というイメージ。しかし、以前購入して積みっぱなしになっていた、ちくま文庫の『中島敦全集』第1巻をふと手にとり、そこに収録された、『山月記』も含む4つの短編群『古譚』を読んで、その印象は大きく変わった。

今の私の中島敦への印象は、「怖い」である。

まず、この本の巻末の解題をもとに少しだけ作品の背景を。

中島敦は1909年生まれ、1941年にパラオ南洋庁に国語編修書記として赴任。この赴任前に小説家の深田久彌に批評を仰ぐべく預けた原稿の一つが、『狐憑』『木乃伊』『山月記』『文字禍』の4篇をまとめた『古譚』であった。世間にはまず『山月記』『文字禍』の2篇が雑誌掲載という形で1942年に出、残りの2篇は作品集『光と風と夢』への収録が初出であった。

このことから考えて、古代オリエントから中国まで、舞台や題材は様々なれども、中島敦の思いとしては、この4作品は「ひとつのまとまり」として認識していたことは間違いない。

『山月記』は、その内容ゆえに、若者に向けた道徳訓として読まれることも多かろう。特に、教科書での扱われた方、「この作品を通して筆者が言いたいことはなんですか?20文字にまとめなさい」などという、あの国語教育特有の「愚問」への解答も、その側面が切り取られることがほとんどだ。

だが、改めて『山月記』を読み、冷静に考えてみると、設定としてはかなり突拍子もない。だって、虎だよ?人が虎になっちゃうってなに?

もちろん、漢文をはじめとする博学な知識を駆使しながら、その突拍子もなさを読者に納得させてしまうところが、中島敦の凄さのひとつなのは間違いない。

そして、この4つの短編はどれも「突拍子もないことが平気でおこるいにしえの話」なのだ。『山月記』も別に説教くさい寓話などではなく、この「突拍子もなさ」をまずは楽しんで読むのが良いのではないだろうか。もう一回言う。虎だよ?

他の短編もまた突拍子もない。『狐憑』に出てくる狐憑はただの狐憑(?)にあらず、物語を生み出す狐憑(そしてその末路)の話だ。『木乃伊』はよくある輪廻転生の話かと思いきや、最後にイヤーな結末が待っている。そして『文字禍』、「文字の霊」という突拍子もない概念が出てくるが、読んでいくうちにその概念に登場人物のみならず読者もひきずりこまれていく。ひょっとすると日本で「ゲシュタルト崩壊」を扱った最初の小説なんじゃないかしら?

どれもこれも突拍子もない。そして読んでいて楽しい。

さて、この4つの短編を束ねるキーワードとして「突拍子のなさ」以外にも挙げておこうと思う。

それは「記憶と記録」だ。

『狐憑』では「記録に残らない物語は知られることはない」ことが描かれる。『木乃伊』でも「楔形文字」として残された「記録」から主人公は徐々に徐々に「記憶」を取り戻していく。『山月記』では、李徴がまだ諳んじれる自作の詩を盟友・袁傪に書き記すことを切望する。『文字禍』でも「記録されているもののみが歴史である」という話が出てくる。すべてに「記録」の重要性を説いているかのようだ。

その一方で、「記録されたもの」が、身体の記憶、生身の記憶を削いでゆく可能性が描かれる。『文字禍』ではまさにその「仮説」を主人公の老学者は立てる。『山月記』の李徴も、自分が人々の記憶に残ることを妄執し続ける。『木乃伊』でもまた、主人公は「記憶」に襲われる。『狐憑』の主人公は、物語を「覚えられなかった」がゆえに、共同体の中で「忘れ去られる」運命へと向かう。

「記憶と記録」は、時に人を助け、時に人を裏切る。

人間が、時間や生死の概念すなわち「記憶」というものを手にし、さらには文字すなわち「記録」というものを手にしたがゆえの、悲喜劇。中島敦はこの4篇の『古譚』を通じて、そんなことも描きたかったのではないだろうか。

そして、喘息という宿痾とともに、「書かねばならぬ」という「宿痾」も持ち合わせていたであろう中島敦にとっての「記憶と記録」とは何であったのだろうか。

博学才穎であり、そして記憶や記録にこだわりをもつ作家。中島敦は、まるでホルヘ・ルイス・ボルヘスのようである。

……

中島敦の『古譚』以外の作品は未読である。書評は読了してから書くべきかもしれないが、この『古譚』の、特に『文字禍』の読んでの衝撃(これ、ボルヘスだよ!)を一度文章にまとめたかったので、まず書いてみた。他作品も含めての書評は、またいずれ。

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