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一首評:山田富士郎「木葉木兎党」より

つかのまのひかりのなかへ霰ふり潮さかのぼる橋脚をうつ

山田富士郎「木葉木兎党」より(『羚羊譚』収録)

「橋脚をうつ」ものはどちらなのだろう、とずっと考えている。

この短歌はおそらく冬の新潟、しかも信濃川か関屋分水路、阿賀野川の河口近くの光景なのではないかと思う。

舞台が新潟ではないかと思うのは、作者の山田富士郎が(この短歌を詠んだ時期は)新潟在住であることはもちろん、この短歌を含む連作「木葉木菟党」には、冬の新潟を思わせる短歌がいくつか見られるからだ。

窓の外(と)の手すりの鉄におとたてつあけがたちかき霰こまかに
われは蜆しぐるる越後のみづに棲みひょろひょろと鳴く一個のしじみ
ゆきぐもの底より生れし旅客機のひしくひねむる沼地よぎりつ

山田富士郎「木葉木兎党」より(『羚羊譚』収録)

わたしも新潟出身であるため、冬の新潟の光景は記憶に強く残っている。冬になると、海は荒れ、河口を「さかのぼる」ように波が入ってきて河口近くにかかる橋の「橋脚」を打ちすえるのだ。

わたしがそんな光景を見たのは、関屋分水路の河口の新潟大堰橋でのことだった。高校生の頃の冬の部活のランニングでみた記憶。

しかも、冬の曇天の下、時に雲のすき間から光が差し込んだりする。「つかのまのひかり」だ。でも光が差し込んできても「」は変わらず降り続けていたりする。何もかもが新潟の冬だ

さて。

このようにこのうたは、わたしの記憶する冬の新潟の光景を鮮明に思い出させるような鮮やかな描写が魅力だ。

なのだけれども、厳密な読みで迷っているのだ。

要するに、四句目の「潮さかのぼる」が連体形なのか終止形なのかで迷っているのだ。

連体形ならば「潮さかのぼる」は「橋脚」にかかり、この場合は「橋脚をうつ」ものは「霰」と読める。「橋脚」に荒波がぶつかっていく様子を、逆にあたかも「橋脚」が潮に逆らってのぼっていく、進んでいくように見立てて詠んでいて、そこへ「つかのまのひかりのなか」を「霰」が降ってきて、「橋脚」に当たっている光景、ということになる。「霰」と「橋脚」の関係が強めに感じられる読みになる。

一方、終止形ならば(四句目で切れて)「潮」が「さかのぼる」そして「橋脚をうつ」となり、「橋脚をうつ」ものはさかのぼってきた「潮」と読める。「つかのまのひかりのなか」を「霰」が降る光景、雪よりは騒がしいがそれでも静かに降る「霰」、そこでふと「橋脚」の方に目をやると、一転して、さかのぼってきた「潮」が「橋脚をうつ」荒々しい光景が目に入る。「霰」は「潮」へと降りそして消えていっていることだろう。「霰」と「橋脚(もしくは潮)」は静と動の対比の様相を呈する。

どちらであれ、新潟の冬だ。そう強く思う。

わたしは後者の、終止形が二回続くダイナミックな様子の方が、昔自分が見た記憶の光景に近いので、後者の読みをとりたいところだが、如何だろうか。

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