主観的ネガティブ

例えば仕事で「〇〇さんはこれをやってない」と誰かが怒る。

もちろんその〇〇さんに、やってほしいことを伝えるのも一つの手だが、伝えるということを何かしらでできない時、私はまず『自ら率先してやろう』と思う。

『やってるんですよー!』そんな感じでやれば、いつか伝わるのではないか、なんて思う。

でも「そんな考え甘い」と思う人がいるのもわかる。

「そんなことやったって、バカは気付かないのよ」なんて言われそうと思う。

そう思うのは、私もそっち側になった時、そう思ってたから。


なぜ私は主観的になると、途端にネガティブになるのだろう。

客観的になるとちゃんと周りが見えるのか、割と冷静な判断をできる。

主観的になると、自分の感情が入ったり、ノイズが多くなるのかマイナスに考えがちだ。


相手が、仕事の給料が割に合わないと嘆いていた時、ついつい「そんなこと考えてたって給料は変わらない」と言ってしまった。

「だとしても、なんでそれを考えてはいけないの?」と言われた。

自分だって、自分の給料が割に合うか合わないかということはよく考える癖に、なぜその人にそんなことを言ってしまったのだろう。

本当に私が言いたかったことは、その人がそのことを考えながら辛そうだったので「辛いことは今、考えない方が良いんじゃない」ということだったのかもしれない。

辛いことは、ひたすら考えるより、たまに考えるくらいがちょうど良い気がしている。

でも、それは「そんなこと考えてたって給料は変わらない」と言う言葉とはかなりかけ離れている。


完全に言葉を間違えたなと反省する。

そして、完全に私の主観も入っていたからこそ、そんな言葉に変換されてしまったのだろう。


ついつい前の職場のブラック体質のことを思い出してしまった。

どんなに踏ん張ったって、どんなに正当な反論を言ったって、会社という組織に発言が踏みつぶされてしまったらどうしようもない。

そんなことをふと思い出してしまった。

そこに時間を費やすくらいなら、考えるのをやめるか、仕事をやめるか、その時の私にはそのどちらかしかなかった。


でも、それは人と今の私には当てはまらない。

過去のマイナスを思い出して、それを主観として置くのはやめよう。

過去の自分が知らないことを、今の自分は知っている。


周りが「馬鹿」だと思ってしまうと「どうせ周りは馬鹿だから私が頑張ったところで何も気付かないよ」と思って、それを動くことを辞める理由にしてしまう。

周りが「馬鹿」でも、私が何か動くことで変われるにはどうすれば良いか。

考えることはそういうことなんだよな。


『馬鹿だから、何やっても無駄』ではなく

『馬鹿だとしても、その馬鹿達をどう動かせるか』の方が建設的ではある。

(「馬鹿」という表現が悪いということは一旦棚に上げるが)


どこかで「やめる理由なんていくらでもある」と聞いたことがある。

やめるなんて誰にでもできることこそ考える必要がない。

何か行動を起こせるために、非現実的なことでも考えている内に現実化することがあるかもしれない。

そうやって行動を起こそうとしないと、そもそも何も変わりはしないんだろうね。

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