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「無知」について

ミリマリスト風の生活を送っているが、先日、ぶ厚い国語辞典を買った。電子辞書を愛用しているのだけど、言葉の意味がピンポイントにわかってしまうために、そもそも「調べたい」と思わない言葉には出会えないのが気になっていた。


そして、辞書は改めて教えてくれた。


ぼくは「知らない」ということを。

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そんなことも知らないの?


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思えば、昔からあまりの「知らなさ」によく驚かれた。みんなの関心であるテレビの話も、どこのお店のなにが美味しいとかいう話も、アイドルの誰が可愛いとかいう話も、俗世間のことはなにもわからないし、そもそも興味がなかった。(今は「チェック」している)


とてもじゃないが「一般的な家庭」とは言えない環境で育ち、さらに転勤族であったためか、ぼくは随分へんてこな存在として見られることが多い。(ざんねんながら過去形にはできなかった)


それに加え、記憶する能力が著しく欠如しているので、「知る」ハードルが高い。

「そんなことも知らないの?」


その言葉や言い方から、どうやら世間では「知っている」ということが偉いらしく、「知らない」ことは恥ずべきことなのだと、わかっていった。


しかし、それって本当だろうか。


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「  知 る  」  と  は


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辞書には知らない日本語が無数に載っているが、全部をひっくるめても、6900種あると言われる世界の言語の一つでしかないのだと思うと、人の短い一生ではすべてを「知る」ことは永遠にないのだと思う。


外国の映画や書籍は日本語に翻訳されてやってくるし、あるいはGoogleは瞬時に通訳してくれるわけだけど、それで海外の人の「情緒」がわかるかと言えば、せいぜい「わかった気がする」程度のものだろう。

映画や書籍に関しては、著名人による「作品」なので、無名の人の「心」は見えてこないし、Googleの翻訳は対応する言葉に直訳するだけで、細かなニュアンスが全く伝わらない。

「情報」に関してもそう。


たとえば、歴史の本に書かれているのは、選ばれし代表的な出来事を、ある個人によって断片的に書かれたごく一部であり、どれだけ読み込もうがそれを「教わる」だけで、しかも、学者が新たな発見をするとあっさり変わるものを、どうして「知った」と言えるのだろう。


この変化の時代、あなたはなにを知っている?

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真 に 「  知 る  」 に は


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へんな話だけど、「知らない」でいることは、「知っている」ことよりも難しい。


「知っている」ためには、似たような環境で似たような人間関係の中で、一生を過ごせばいい。毎日が繰り返しのようになった時、思考や行動はパターン化され、変化が起こったとしても、強引にパターンに当てはめて、すべてを「知っている」ことにするだろう。


ところが、「知らない」でいるには、いつも知らない価値観や情報に触れ、刺激を受けていなければならないので、柔軟に受容できなけば疲弊してしまうのだ。その上、「知らない」ことを恥だと思っていれば、「知らない」自分を肯定することが困難になり、「知っている」顔をしたり、「知っている」気にしてしまうのだろう。


真に「知る」ためには、まずは「知らない」を自覚する必要があり、「知らない」を自覚するには、「知らない」から恥ずかしいとか、「知っている」から偉いとかいう幻想を取り払い、「知っていても知らなくても私は偉いけど、ただ知りたいから知る」くらいの気概でいなければならない。そして、どんなに知っても再度「知らない」を自覚する「知性」を持ち続けること。

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「 知  り  た い 」 


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「そんなことも知らないの?」と言ってもらえたおかげで、「無知」を自覚できたことは、幸運だった。ぼくは今「知らない」ことが嬉しくて仕方がない。


「知りたい」


「知りたい」というまっすぐな好奇心を持てるのは、「知らない」からである。


新しい「言葉」と出会ったり、新しい「感覚」、新しい「場所」、「人」、世界は「知らない」に溢れていて、知っていることなど限りなく0に近く、そして喜びは「知っている」ことよりも、「知らない」ことにある。


すべてを「知った」とき(つまり「知った気がしてしまった」とき)、人生の楽しみを失うのだ。


とまあ、ここまで「無知」を説くぼくも、まだ日本でしか暮らしたことがないので、きっとまだ「無知」すら実感として知らないのだろう。

「無知」を知るために、色々な言語を習得して、外国の映画を字幕なしで観たい。英語のまま、中国語のまま本を読みたい。『ポケトーク』ではなく、現地の言葉で会話をして、理解を深めたい。

もしも叶うなら、「既知」と「未知」を行き来しながら、世界中を旅してみたい。

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