数の力と自由

 数というのは分かりやすい。百人のグループと十人のグループが対立していたとき、その構成員の質に差がない場合、百人の方がはっきりとした「強さ」を持っている。
 それは何も暴力だけに限った話ではなく、言論においても同じである。より大きな音を立てるには、より多くの人が音を立てるのがいい、というのと同じだ。
 通常言論は、正しいことが力を持っているのではなく、正しく思われるものに人が集まり、人が集まるから力を持つのである。だから、もし大衆が難しいことを正しいという場合、それは、その難しいことを理解し、その正当性を把握したからそうしているのではなく、大衆が一致して「賢くて正しい人」と思う人間が、それを主張しているからである。

 何が話されているかということよりも、誰が話しているか、ということの方が重要なのは、それが言葉というものの役割であるからだ。もともと言葉は言葉単体で存在しているわけではなく、それを発する存在と、それを受け取る存在がいてはじめて成り立つ。当然のことながら、この世界には多様な存在がいる以上、話す人間の印象によって言葉の受け取る内容は変化し、逆に受け取った言葉によって、話す人間の印象も変化する。

 たくさんの人の支持を受けている人間は、その内容がどうであれ、その言葉は正しくて強いものとして扱われる。正しくて強い人間が発した言葉は、常に正しくて強いのであり、もしその言葉に対して「間違っていて弱い」という認識が受け取る側に芽生えるならば、その対象の人間の正しさや強さまで疑われる。

 当然のことだが、ものごとには「適切な範囲」というものがある。
 私は弱すぎるので正しくない。強すぎる者も、たいてい正しくない。賢過ぎる者も、正しくはない。愚か過ぎる者も同様である。
 人間を集団として見た時、私たちの正しさは不愉快極まりないものになる。正しさとは強さであり、強さとは、支持者の割合である。もし自分の意見を正しいものにしたいなら、まずは人を集めることから始めなくてはならない。そのために用いた方便が、力を持った後も自分自身を縛り付け、足取りを重たくさせる。人々がついてきたのは、私が述べたことが正しかったからではなく、私が述べたことが、彼らを喜ばせたからであり、彼らが引っ付いているのは私の正しさではなく、むしろ私の方便に、なのだ。

 誰もが力と強さを欲しがっている。どれだけ人を集められるか、ということで競っている。そのためについた嘘のせいで足は重くなり、人は増えれば増えるほどうるさくなるので、耳も悪くなっていく。
 そのうち、自分についてくる人間たちをみんな軽蔑するようになる。当然だ。人は群れると粗悪になる。群れを率いている人間は、群れの一員にはなりきれない。粗悪な人間に囲まれても、自分自身は粗悪になりきれない、かわいそうな個人が出来上がる。彼は、みんなから監視され、彼らの機嫌を損ねるようなことを少ししただけで、ひどく痛い目に遭わされる。現代において、力と強さについて回る責任とは、果たすべき義務のことではなく、彼らの機嫌を損ねた時の対応のことをいうらしい。おかしな話だが、今はどんな力も強さも監視され、罰される。

 それでいて、力そのものの正体である「数」の構成員たちは、罰せられることはない。間違ったことを支持しても、忘れたり、反省するそぶりだけ見せていれば、それで十分とされる。
 現代において、力を借りる側は責任という名の罰や拷問を受けなくてはならないが、力を貸す側は、一切の義務も意志も努力も責任も必要としない。ただ己の欲望や感情、趣味に従っているだけでいい。間違っていたり、失敗したとしても、それは力を貸した方の罪ではないらしい。

 少なくとも現代においては、そのような「大多数の無責任」は、大多数によって支持されているので、正しいこととされている。集団内においては強い意見が正しい意見であり、もし大多数が「全ての人間は、支持する対象が誤っていた場合、その誤りの責任を、対象と同様の形で取らなくてはならない。つまり、独裁者を支持した全ての人間は、その独裁者が敗北し処刑された場合、同様にして処刑されなくてはならない」と考えた場合、それは正しい意見となる。だが、おそらく大多数というのは、気楽であることや、適当に決めることが好きなので、そのような重苦しい考え方を支持することはないだろう。

 だが冷静に考えてみれば、大多数を率いようとする人々は、常に自ら罰せられる覚悟を持って彼らのご機嫌取りをしているのだから、不思議なものだ。


 人間がみんな賢くなるためには、全ての人間を孤独にしなくてはならない。おそらく半分以上の人間は気が狂うことだろう。
 正しいことを知ってなお、狂わずにしっかり自分の足を地面につけていられるか。それが難しい。正しいことは人に強いストレスを与える。狂気の原因というものは、基本的には、言語や認識そのものにではなく、言語や認識がもたらす精神的なショック及びストレスなのである。

 人は苦しまないと賢くならない。弱くないと賢くならない。

 実のところ、力を持つのに必要な賢さは、ほんの少しで十分なのだ。そして力を持った人間はそれ以上賢くなる必要がない。むしろ、自分の考え方を変えないことの方が重要になる。自分の知らない考え方を自らに取り入れるのは最小限にしている方が好ましい、ということになる。
 あまりにも多くのことを知ろうとしたり、分かろうとすることは、人を弱くする。賢さは力を軽蔑するからだ。

 それでも、力というのはある意味絶対的なものだ。私がどれだけ賢くても、力が目の前にあれば、私はそれに配慮しなくてはならない。力とはそういうものなのだ。
 そしてどれだけ強い力を手に入れても、それよりさらに強い力というものがそばに存在する。実際、体が大きくなればなるほど、比較の対象にされやすくなり、自分自身もまた、比較することを意識せずにいられなくなる。しかも厄介なことに、比較することがあまりにも無意味であり、苦しいことなので、そうしないように気を配らなくてはならない。
 力とは他に対して支配的であり、他の自由を縛り付ける能力を有しているが、かといって、それを持っている人間が自由であるというわけではない。

 自由とは、もっとも小さく、弱いところにしか存在しない。自由とは、孤独な人間のところにしか存在しない。自由とは、何もしないでいることのできる人間のところにしか存在しない。

 ほんの少しの力でさえ、私たちの自由を束縛する。ほんの少しの人望が私たちの行動を制限する。失望への恐怖が空を飛べなくさせる。

 心も人生も重たい。私たちは実のところ、みんなそれをよく知っている。だから誰かに自分の力を投げ出すことによって、疑似的に自由を、つまり無責任を味わおうとする。でも、それは単なる重さからの逃避であり、重力から逃れるために寝そべっているようなものなのだ。誰かが上に登るための土台になることが、自由になるということではないのだ。もちろん土台を踏んづけて上に登っていく人々も、彼らの下にいる人々のご機嫌を取らなくてはならないし、上に登ろうとする意志、つまり縛りがその人間にある以上は、自由とは言えない。

 自由なんていいものではない。そう言ってしまうことは簡単だが、しかし私たちは自由をよく知らないし、その自由の断片のようなものが自らの内側に生じてきたとき、大きな喜びの予感を感じる。
 私たち賢い人間はなぜか皆、自由を欲せずにいられない。自由ではないからこそ、だ。

 全てから解放され、思うがままに、日々を楽しむ。そのように生きることが、どれだけ美しく楽しいことか、思い描かずにはいられない。それだけが人生の全てであると思いたくなってしまうほどに、自由というのは魅力的なものなのだ。


 それにしても本当に、言葉というのは小さなものだと思う。でもこれにもしっかり重さがあって、自由に生きることが私たちはできないのと同じように、自由に言葉を話すということもまた、私たちにはできない。

 それでも、こうやって言葉を重ねていくのは、疑似的にだが、自由にものを書いていくのは、完全な生の自由というものを予感させる。
 同時に、じらされているような気持ちになって、時々うんざりする。私の文章は自由と呼ぶには重すぎる。それでも、私自身の人生よりかは軽く、軽すぎるくらいだから、それに価値を置くことも難しい。この微妙な中途半端さが、私を苛立たせる。

 自由。自由。自由。人生が自由であってほしいと願うのは、もはや本能的なもののように思えてならない。

 だがその、自由であってほしいという願いですら、私たちの人生にとっては重荷にしかならない。人生の重さにうんざりしている。疲れている。

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