生の自己肯定システム

 自己肯定感うんぬんの話をするつもりはない。
 ほとんどの人間に備わった自己肯定的なシステムについて分析していきたい。


 人は己を肯定する生き物である。自己否定的になっている人間ですら、自己否定的になっている自分を肯定している。「自分の否定すべきところを否定出来ている自分」というものを、否定しながら褒めているのだ。

 実際人間が何かに対して不当に(不当に、とはそういうする必要も道理もないのに、という意味で捉えて欲しい)否定する場合、その人間は通常、否定している自分の洞察力や認識力、反省力のようなものを誇りに思っている。プライドを持たない人間は、自分を否定する理由がないので、基本的に自己否定なんてしないのだ。
 自分を否定するのは「もっとよい自分」を想定しつつ、それが想定できている自分を誇りに思っているからである。
 もっと程度の低い人間は、他者を否定することによって自分を肯定しようとしているが、そういう人たちのことはここでは取り上げない。彼らに対する分析は、もっと単純な頭の人に任せることにする。

 自己否定の極限に至っている状態は無気力になった人間だが、この場合は確かに、自己肯定の能力がうまく働いていないように見える。というより、無気力に陥っている人間は、人間の精神的機能が一律で一時的に低下しており、死を目前にした老人のような状態になっていると思われる。彼らの場合は「自己否定している」というよりも「肯定機能が低下している」と言える。肯定どころか、否定すらも出来ていない状態なのである。

 自己肯定とは、人間に備わった感情や欲望と同じくらいに、全ての人間に備わった、有用であると同時に、危険なシステムである。たとえば男性の性欲は、子孫を残したり、人を愛したりするのに役立つが、方向を誤れば他者を傷つけるような結果になる。そういう場合はとても多い。
 自己肯定のシステム自体もこれと同じで、基本は役に立つものではあるが、周囲や自分自身に害を及ぼすことが極めて多い。
 ゆえに、無条件的に「自己はより強く肯定すべきである」と考えるのは、少し早まった考え方だ。


 人間は健康になれば健康になるほど、自分自身を肯定しようとする。いや、自分自身を肯定しようとする強さそのものが、健康の度合いかもしれない。
 この自分自身を肯定するというのはどういうことか。それはおそらく、他者との関係性における、自分自身の高度さや清潔さのことを言う。自己を肯定するという機能自体が、他者の存在を前提としており、おそらくは、ある種の排他性を内に秘めている。

 自分に害を与えた人間や、自分が嫌いな人間が、その人自身のことを強く肯定している場合、ほぼすべての人間が、その人間の「自己肯定的なシステム」を自動的に強く憎んでしまう。
 逆に、自分に利益を与えた人間や、自分が好きな人間が、その人自身のことを強く肯定している場合、ほぼすべての人間が、そのさまに喜びや美しさを感じ、追従したいという欲求を感じる。
 自己肯定とは基本的に、他者から観察された場合、好意と嫌悪、敵と味方という感覚によって、そのよしあしが大きく変動する。
 先ほど述べたように、自己肯定の反対は自己否定ではなく、むしろ自己否定もまた自己肯定の一形式でであり、自己肯定の反対は、自己肯定及び自己否定の欠如、つまり無気力にあるとしたが、人間の精神は不足と過剰ではなく、白と黒といった対立構造の中で理解することを好むことが多いので、そのようになってしまうのである。

 さらに、自己肯定とは生きようとする強さの程度でもあるため、当然自分たちが生きるのに都合の悪い生命がより強い力を持つと、私たちはそれに対抗するためにより強い自己肯定及び、彼らに対する否定意識、つまり排他性を強める。それは生き残るためのシステムであり、自己肯定から必然的に導かれる生のシステムである。

 私たちに害する存在の自己肯定は、それが強ければ強いほど私たちにとって危険となる。そして存在の自己肯定は、何らかの他者を抑圧し、その存在自体を拡大しようとする。しかも同質的な作用も有している。
 基本的に生命は、より強い生命になろうと欲するから、強い自己肯定がそこに存在する場合、自分自身をそこに同質化させようとする。これは大衆心理にも関係しているが、強い自己肯定は人に模倣させる作用があるのだ。

 そして、それは他者を害するような形での自己肯定についても同じことが言える。ただこの場合、内側を傷つけたり弱めたりする場合は、人があまり集まらず、逆に内と外をはっきり定め、外には攻撃し、内側は完全に守る、という一個の独立したシステムが、より多くの人を集める。自己肯定とは、どうあがいても排他的なシステムであり「これこれこういう人間が素晴らしい」と言ったとき「これこれこうでない人間はくだらない」と同時に否定しているのである。


 争いの源泉は自己肯定的なシステムであり、健康や生そのものである。ただし、生の形式はこの時代大きく変化しているため、今もまだこの自己肯定的なシステムによって悲惨なことは引き起こされ続けているが、今後どうなってくるかは分からない。

 現代においては、強力な自己肯定的システムが無数にあると同時に、だからこそそれらが個人に対して圧倒的に強い力を持てずにいる。つまり互いに争い続けているせいで、どの力も、他の力を圧倒するほど強力にはなれないのである。それは国家間の戦争の歴史にも同じことが言える。人間の自己肯定的な意識は多様であり、多様であるがゆえに、絶えず争うため、何かが完全に支配的になることはありえない。
 それぞれが別の自分を肯定しており、他の肯定意識を無意識的に否定している。
「彼らは間違っている。私や、私の信じる彼こそが正しい」
 それは誰もが思っていることである。仏教徒にとっての「彼」はブッダであり、キリスト教徒にとっての「彼」はイエスであり、イスラム教徒にとっての「彼」はムハンマドである。
 無宗教者にとっての「彼」は自分であったり、親であったり、恋人であったり、国家権力であったり、世界平和であったりする。いずれにしろ、それに反対するものは「間違っている」のである。哲学者にとっての「彼」は真理であったり、考えようとする理性そのものであったりする。哲学者ですら、排他性を持っている。どんな人間も、肯定意識外での肯定を行うことはできず、他の否定を伴わない肯定など存在しない。


 ただし当然のことながら、否定はすなわち敵対ではない。否定しつつも調和するということは可能であり、むしろこの世界は、常にその方向に向かっていると考えることができるほどである。

 さらに、自己肯定のシステム自体が、生をより強力でよいものにしていくためのものであるため、敵対よりも調和の方が、生きることにとって都合がいい場合、人は通常そちらを選択する。敵対とは、真に相容れない者同士の最終手段であると同時に、知恵や精神的な複雑性の欠如によって生じてくるものだ。
 ある程度の精神性を有している者同士は、敵対するしかない場合においても、距離を置き、ぶつからないように気を付ける。それは「逃げる」と表現されることは多いが、別の見方をすれば「生の範囲の拡大」ともいえる。
 よくよく考えてみれば、海から地上に進出したのも、空を飛べる生き物が生まれたのも、私たちが二本足で立ってより大きな脳を獲得したのも、他の生物と同じ土俵でぶつかり合いたくなかったからなのかもしれない。そう考えてみると、私たちは、勝てるか勝てないか考える前に、別の場所で生きていこうとし続けた生物の末裔だと見ることもできる。争いを好むのは、他の動物たち一般の本能的なそれであることも多い(草食動物ですら、メスの取り合いなどでは激しく争う)ので、一種の退化や先祖返りとして見ることも、可能かもしれない。
 私たちが宇宙に魅力を感じるのも、より広い空間を欲するのも、そういう本能に根差しているのかもしれない。もしそうなら、喜ばしいと私は思う。


 まとめると、生物というのは自己肯定せずにいられない生き物であり、それはつまり、自らの生を他に対して主張する強さや心身の健康の程度である。
 これは全て排他性を有しており、必ず自らの肯定と相容れないものを否定する性質を持つ。
 人の争いの原因は、それぞれの自己肯定意識、生の本能とそのシステムにある。

 ここまでは私の中で、ほとんど事実と言えるくらいはっきりとした理屈である。

 この先は個人的な願望と予測ではあるが、生の本能とそのシステムは、高度になるにつれ、互いにとって危険となるような争いは避け、お互いに別の場所で生きるようになる。自己肯定そのものが互いにとっての害とならないような、実際的な行動がとれるようになる。自らの健康と、他者の健康が決して相反するものにならないような、そんな工夫を、大きな健康と生の強さによって、実現させられるようになる。
 実際、ものごとを調和させるというのは、本来調和しないもの、敵対し、相容れないものを、努力によってよい形まで持っていくことにある。調和させようとする意志自体もまた、ひとつの自己肯定の形式であり、これが否定するのは「あらゆる争いや単純性や原始性」などである。あらゆる自らが否定するものを内側に取り込むと同時に、それが自らを害しないように慎重に位置を調整する。そういう生の在り方が、私の将来的な予測であるのだが……

 先ほど願望と述べたが、私自身はこのような未来を、よいものとはっきり言えないような気もする。世界の全てが調和してしまうのもまた、なんだか生が退屈で窮屈なものになってしまうような気がするのだ。

 勝手なことだが、ニーチェの現実認識と私の現実認識は似通っているが、未来を予測する力や方向性は異なっていると思っている。私が「生の自己肯定システム」と呼んだものは、ニーチェが「力への意志」と呼んだものに近しいが……



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