明るい精神・暗い精神

 運動をしている時は、精神というものがなくなっている。運動に限らず、複雑な計算をしている時や人と話をしている時もそうだ。私たちは活動をしている間は、迷妄に陥ったり、過去のつらい出来事に囚われていることはない。
 日中、やるべきことがある人の多くは、それによってものを考えなくなっているが、それは決して悪いことではない。人間というのは精神的な部分が全てではないので(むしろ、精神をおまけだと考える方が実態に即していると言えそうだ)そのように、肉体的、実際的な存在として時間を過ごすのは健康的なことだ。

 ただ当然のように、全ての人間には精神的な部分があるので(おそらくは、多くの動物にも多かれ少なかれ備わっていることだろう)それらのこともしっかり考えてやるのがいい。

 多分なのだが、精神に対してどのように付き合うべきかは、その人間の精神の大きさや強さ、その他多くの気質によって左右されるので「このようにすればよい」というのはないと思う。もちろん、自分によく似た人間が身近にいる場合には、その人間を模範にしたり反面教師にしたりすることは有用であると思うが、あなたがそうとは限らないので、自分の体と心をしっかり見つめながら、自分の精神をどの程度明るくするか考えた方がいいと思う。

 夜行性の生き物がいるのと同じで、精神というものも、間違ったことを信じていた方が都合のいい場合は極めて多いし、その方が健康にとって都合がいいことも珍しくない。だが、私たちがこういうことを言ってしまう時点で、私たちの精神はすでにとても明るいものであることを示している。
(というのも、暗い精神というのは通常「正しいことが有益であり、間違っていることは少ない方がいい。そして私が正しいと思っていることの多くは、実際においても正しい」と考えているからである。実際に人や自分が信じていることと、この実際生活における実証的な正しさを比較してみると「私たちは間違ったことを信じることの方が多いし、間違ったことを信じることによって被害を受けることも少なくはないが、それ以上の私たちは誤りから利益を得られている」ということの方が確からしく、さらに「正しさの多くは、それ自体では何の役にも立たず、それをうまく利用することによってはじめて役に立つが、そのうまく利用するにあたって、その正しさ以上の誤り(方便)を必要とすることだろう」というのもより確からしいことだと思われるからだ)

 精神を暗くすることは、自分よりものごとを知らない人間と交わり、彼らから好かれ、褒めてもらおうとすることである。
 さらに、あらゆる宗教の祈りの文句をじっと座って唱え続けるのもいい。
 瞑想も悪くはない。瞑想というのは実のところ、精神の眠りであり、瞑想を行っている間に精神が明るくなっているのではなく、あれをすることによって一時的精神が休まり、限界まで暗くなり、そこから戻ってくることによって、以前より相対的に精神が明るくなるという作用を起こしているのだ。つまり、瞑想は時々やる分には人の精神を明るくするが、毎日長い間瞑想をしていると、どんどん精神が暗くなっていき、何も分からない状態になっていく。とはいえ、起きている時間の半分以上を瞑想を費やすでもしない限りはそうなりはしないので、危険なものではないことを言い添えておこう。ただ、精神を一時的に暗くする、という意味で、ふだんから自らの明るさに参っている人間にはちょうどいい健康法と言えそうだ。

 本来生物の精神というのは、人間の活動に付属するものでしかなかった。その生物の活動にとって、有利となる内的な作用が、精神と呼ばれていたからである。
 そして精神は、歴史上多くの役割を果たしていた。人間が他の動物と大きくこの点で区別される点は、人間の生進は複雑かつ多様であるということだ。色々なことができる、というのが人間の特徴なのだ。そして色々なことができるためには、賢くないといけない。そしておそらくは、愚かでもないといけない。

 愚かさという言葉は、基本的に自らにとって損を招くような性質のことを言う。そういう意味においては、あらゆる動物はあまりに愚かしさに欠けている。彼らは自分たちが生きていくうえで非合理的な性質を有していることが極めて稀であり、通常彼らの生態のほとんどは、彼ら自身の役に立っている。
 対して、人間は色々なことができるという意味では賢いが、たくさんのことができるという長所がゆえに、自分によって不利なことや損になることをもしてしまうという性質もまた、他の動物より強く持っている。ゆえに人間は、あらゆる地球上の生物と比べ、極端に賢く、極端に愚かなのである。
 賢さが愚かさを育て、愚かさが賢さを育てている、と考えてもいい。実際それは、兄弟のように争いながら成長してきた。ちなみにこれは、幸せと不幸にも同じことが言える。

 人間を「よい生物」と呼ぶかどうかは難しい問題として、もし今の人間を他の動物と比較して「よい」とするならば、私たちはより賢く、より愚かにならないといけない。そしてその「より人間らしく」というのは、言い換えれば「より明るい精神を持って」とも言える。明るい精神とはつまり、賢さと愚かさの方へ、つまり複雑さと多様さの方へ向かう精神のことなのだ。
 言い換えれば、未知を愛し、そこに飛び込んでいく精神を明るい精神と呼ぶ。

 逆に、今の人間を「よくない生物」と見做すならば、私たちは、賢さと愚かさがこれ以上大きくならないようにして、抑圧しなくてはならない。これは「より生物として安定した生き方」を望む方向であり、「より人間らしく」ではなく「今ここにある人間が、人間の終わりであり、人間らしさそのものである」とすることである。
 複雑さと多様さを拒絶し、単純な誤り、すなわち合理的な繰り返しの中で今ある幸せを追求することが、精神を暗くするということである。


 私は時々思うのだが、そういう人間の明るさや暗さは、個人個人が自ら望んで選べるものではなく、運命や偶然、生活環境によって勝手に決まってしまうものであるような気がするのだ。
 私がそう望もうと望むまいと、明るくなるものは明るくなるし、暗くなるものは暗くなる。
 意志という作用ですら、あくまでそれは肉体が発生させているものである以上、私の中でそれが強くなり、私を行動させていく場合においても、それはあくまで自然的なものであるように思えてならないのだ。

 意志とはおそらくは、すでに決定されたものを肯定する作用なのだ。私たちが行動して、その行動を断固として成し遂げるために、意志というものを肉体が用意し、それが私たちを鼓舞する。行動なきところに意志はない……

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