盗まれたい言葉

 昔から私にはある種の願望がある。それは、私の発想や思想が、誰かに模倣されたい、盗まれたい、という願望だ。

 私は自分自身の損得にあまりに興味がないため、自分のやったことや考えたことの成果を人に認めてもらうよう努力することがあまりに少ない。やる気が起きないのだ。
 だが、人に影響を及ぼすことは好きだし、私ではなく、私の生み出したものが褒められるのも、嬉しく思う。(私自身のことは、私自身で十分褒めることができるので、他の人に褒められても、礼儀としては喜ぶが、自分自身としては、実はそんなに嬉しくないのだ)

 だからか、割と頻繁に、私の文章を読んで、その内容や美しさを、もっと良い形で表現できる人に託したいと思うし、その人は、その人自身のオリジナルとして、その盗んだものを扱ってほしいと思う。そうして、その人自身の仕事とその名誉を全てその人自身に帰して欲しいと思う。

 私は自分の考えを完全なオリジナルだと思ってしないし、そもそも発想や思想を「自分自身のもの」だと考えること自体が、ある種の不当な権利の主張だと考えている。寄せ集めだからとかそういう意味ではなくて、発想や思想というものは、科学と同様に、それを理解できる人間全てのものであるからだ。誰か一個人の利益のために利用されるべきものではない。

 だから、私よりもっと色々な意味で優れた人が、私の文章を読んで理解したことを、その人自身の言葉で表現して欲しいと思うし、そのようにして、より美しいことや正しいことが、世に広がればいいと思う。

 私は目立ちなくないし、尊敬されるのもあまり好きじゃない。実際以上に高く評価されるのだって、疲れるだけだ。だからこそ、別の人間がそういうことをしてくれたら、と思う。
 ゴーストライター的な願望が、私にはある。私は著作権というものを軽蔑している。私自身は人の作品を盗んで自分のものとして、利益を得ようなんて、私自身の倫理観が許さないからこそ、そういう仕組み自体の意味が、あまりよく分からないのだ。
 人のものを盗んで自分のものとするのは、精神の貧しさの証拠であるが、しかし精神が貧しい人間は、そのようにして少しでも豊かになっていくしかないし、そういうやり方は不当なものではない。利益や名誉が云々というのは、貧しくあるしかない者同士の小競り合いであって、私たち精神的に豊かな人間は、互いに贈り合うこと、盗み合うことを喜びと感じる。

 しかしそういう豊かな人間は、影響を受けたことを恥ずかしく思うことも多いと思う。豊かである、というプライドが高いからだ。そういう場合は、その人自身が全て自分で考えたこととして表現すればいい。その方がいいことだって、たくさんある。
 私は、私の影響を受けた人間が増えればいいと思っているが、その人たち自身が、そのことを自覚したり、あるいはそのように明言する必要はないと思っている。むしろそういうのは余計なことだと思っている。
 どんどん剽窃してくれればいいと思う。私と同じ言葉を話す人間が増えればいいと思う。そのような剽窃を、好意的な剽窃を、恥ずかしく思わない人間が増えればいいと思う。よいと思ったものを、よいと評価し、自分でも呵責なく自由に使える人間が増えればいいと思う。


 私はあまりに欠けたところの多い人間であるし、人間の集団における通常の欲望というものが、比較的小さい人間でもある。承認されたいという欲求も、人より高いところに立ちたいという欲求も、他人より秀でていたいという欲求も、あまり大きくない。まったくないわけではないが、それを動機に努力できるほど大きなものではない。
 しかしながら、私自身の目標や理想、願望を現実にするためには、そういう強い欲求が必要なのだ。ただ、残念ながら欲求というのは、手に入れようと思って手に入れられるものではない。エネルギーや努力の方向性というのは、どこまでもその人間の生まれながらの性質や、生活している環境によって決まってきてしまう。
 だから私は、そういう意味において「私よりよくできた人間」の力を借りたいと思ってるし、そういう人たちは、その人たち自身の気質を持って自由にやってほしいと思う。

 私は学者ではないし、学問の世界のこともあまり好きではない。論文を書くときに剽窃や盗用をするのは、ある種のルール違反だ。それは彼らの「名誉」や「利益」に関わることだからだ。
 だが私のような、考えることや知ること自体を喜ぶ人間にとって、名誉や利益は割とどうでもいいことだ。私の名なんて知られなくていいし、むしろ知られない方がいいし(私は名誉ある立場には相応しくないし、向いてもいないので、私の語ることがどれだけ正しくても、私の立場からでは説得力が生まれない。だから、別の人間が語らなくてはならないのだ)当然、私から影響を受けた人も、私から影響を受けたことなんて、綺麗さっぱり忘れてしまうべきなのだ。
 その人自身の成果になればいい。名誉と利益になればいい。私はただ、私が「正しい」と思うことが、皆もそう思うようになればいいと考えているだけだ。世界が、私が見ていて気分のいいものになってくれることが、私の望みであり、私が人より高い立場に立ったり、ものごとを自由に動かせるだけの金銭を得られたとしても、この世界の大多数の人々が醜い生活を送り、汚れた言葉を吐き出し続けるならば、何の意味もないのだ。相変わらず私と私によく似た人たちは、病気と不快に苦しみ続けることになる。

 私の言葉はいくらでも盗んでいっていい。好きなだけ持っていって、その人自身の趣味で作り替えてもらって構わない。ほとんどそのままの形で表現して、その人自身のものだと主張してくれても構わない。一向に構わない。それで私は少しも損をしないし、それどころか、私の想像する「よい未来」に一歩近づく可能性すらある。

 めんどくさいコミュニケーションなんて不必要だ。好きなだけ盗んでいってくれ。
 盗人になりたくないのなら、私の贈り物を丁重に受け取って、何も言わず心の内で感謝だけしてあとは忘れて自らの財産としてくれ。

 私はめんどくさいことが嫌いだし、金も地位も名誉も権力もめんどくさくてどうにもならない。余計なものとしか思えてならない。それを手に入れると、それを欲しがる人間が群がってきてしまう。それは事実だ。世の道理だ。そして私は、そういう人間たちが苦手だ。何もなくても楽しめる私たち精神的に豊かな人間は、私たちを忙しくするものや、私たちの周りで騒ぐ人間たちを好まない。
 だから、私から何かを盗むのに、申し訳なさとか、後ろめたさを感じる必要はない。ルール違反でもないし、私を不快にさせることもない。だって私は、あなたに興味を持つことなんてほとんどないし、あなたが私と同じことを言ってたとしても「盗まれた」と思わず「あなたも偶然(あるいは必然的に)私と同じことを考えたんだな」と感じるであろうから。

 私はもっと、他の人の口から、私と同じ言葉が聞きたいのだ。

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