「もし」から入る思考法

 世の中には色々な考え方の癖がある人がいる。バイアス云々言って、ある特定の癖を悪く扱う場合もあるけれど、そんなことを言い始めたら「論理性バイアス(論理的でないものごとに対して極端に否定的な認知を行う)」とかって考えることもできるし、元々どうあがいても人間の認知は程度の差はあれど偏ってしまうものだから、あまり気にしても仕方がない。

 おそらく「誤った考え」や「誤った認識」というものが何かあるのではなく、単に「不足した考え」「表面的な認識」があるだけだと思われる。だから、ものごとを否定的、批判的に見ること自体は悪いことではないんだけど、それはあくまで認識や思考の一形式でしかないっていうことを忘れないでほしいんだ。

 ある命題とか、あるいは事実として語られている記述に対して「それは間違っているんじゃないか?」と先に直感的に疑い、それに対する否定的な情報を探し始めるのは、ものごとの真偽を判断するうえで有用な癖ではあるけれど、それだけだとどうしても、それを信じている人や、そもそもその考え自体の有用性に目が向けられなかったりして、認識の世界を狭めてしまう恐れがある。特に「間違っているから知らなくていい」と考えるのは、この広い世界で生きていくうえで、非常に問題のある考え方だと思う。
 宗教や文化というものは正しいとか間違ってるとかそういうものとは関係なく、人間の実際生活に結びついているものだから、そういうものを「誤り」と断じて無視すると、色々とひどいことが起こる。
 実のところ、そういう「道理」を弁えていないことを、哲学的な意味で「無知」と言ったりする。私たちは通常十分に真偽を判定する能力を持っていないし、そもそも偽とされるものならどんなものでも無視していいわけではない。偽とされるものの中にも、私たち自身の生活や、あるいは学問上においても重要な要素が含まれることは多々ある。

 そういうわけで、私が勧めたい思考法は「もし」の思考法だ。あらゆる命題、事実とされるものに対して、それがどれだけ馬鹿げていて薄っぺらなものだとしても「もしそれが正しかったら?」という風に考えてみること。
 特に自分の持っている意見と相容れない意見を見つけたときほど、それをやってみるといい。案外、その考え方がある点においては合理的であることが分かる。正しくない事柄のほとんどは、誰かの役に立つからそれが正しいとされているのだ。
 繰り返しになるが、正しくないものは価値がないと考えるのは、単純な思考しかできず、知識も表面的であるという決定的な証拠になってしまうので、気を付けた方がいい。


 私は大して頭のいい人間ではない。計算は早くないし、記憶力も微妙だ。コミュニケーション的な部分での頭の回転は速い方だけど、あまりにも感情的な部分が繊細であるため、パフォーマンスには非常にばらつきがある。自分でもびっくりするくらい、素早く適切なタイミングで言葉が話せることもあれば、おろおろして笑うことしかできない場合もある。
 何はともあれ、ものごとを考えるのに、特別な頭のよさは必要ないと私は考える。もちろん最低限の計算力や記憶力は必要だと思うけれど、それ以上に大切なのは忍耐と好奇心だ。

 一度の思考で答えを出そうとしないこと。最初の答えらしきものに囚われないこと。あらゆる真実や真理と言えそうなものを、単なるものごとの一側面でしかないと捉えること。

 あくまで最終的に何が正しいかというのは自分が定めるものであり、この実際世界に存在するものの全ては「確からしいもの」でしかない。あくまで私たちが、その認識に対して、仮の信用を置いているものごとでしかない。


 私は私の思考法や認識を、他のどの思考法や認識より優れていて高度なものだと考えている。いや、優れていて高度、というより、文明のレベルに即した妥当な認識、と考えている。これは学者としての在り方や職業人としての在り方ではなく、ひとりの人間としての、である。
 実際生活に即した、より楽しい思考法、世界観である、というわけだ。


 先ほど私は「人間は偏りのない思考などできない」と述べたが、それに対する「もし」は、こうだ。
「完全に偏りなく思考できる人間がもしいたとしたら、私の考え方は間違っている。その人間は、存在可能だろうか?」
 もちろん、神を持ち出せば、神の思考こそがもっとも偏りのない思考だと定義できるので、そういう方向で考えていくのも面白いのが、私の文章を読んでいる人たちは神なんて信じていないだろうから、そういう思考はここでは述べない。
 ただ実際に「完全に偏りなく思考できる人間」が存在可能か、考えてみよう。

 もし完全に偏りなく思考できる人間が存在したとしたら、彼の話す言葉は我々偏った思考を持つ人間に大してどのように響くだろうか。それを私たちは「偏りない認識、思考だ」と判断できるだろうか。

 私たちはよく、自分たちとよく似た認識や思考のことを「偏りない認識、思考だ」と独断的に考えがちだ。
(補足になるが、私が自分のことをもし「私の認識や思考は偏りないものだ」と言ったならば、私とは異なる考えで生きている人たちの全ては、私に対して「この人の認識や思考は偏っている」と感じることだろう。私自身も同様に、私と異なる意見を持つ人間が、自分は正しいのだと主張している場合、私自身もそう感じるし、どれだけ考えても、それを肯定することはできない。ゆえに、私の認識や思考が偏りないものと考えるのは不当である。私がなぜ独断的に私自身の認識や思考を「偏っているもの」として認識しているかの説明は、これで十分だと思われる)
 私たちは私たちとは異なる意見を述べる人間が、自分は正しいのだと主張したときに、それに対して説得されなかった場合は、私たちはその人間のことを偏っていると見なす。見なすしかない。口では何とでも言えるが、私たちの認識は、そのようにはたらく。
 ゆえに「完全に偏りなく思考できる人間」がもしいたとしても、私たちはそれに気づくことはまずできない(もし私たちがそれに気づくことができないならば、それすなわち認識できないことであり、境界線を引くことができる。つまり、存在してもその存在を確定できないものについては、分析することも予測することもできないため、それは「不明」のまま放置しておくしかない)か、あるいは気づくことができるならば、その人間は私たちをある一つの(あるいは複数でも構わないが)考えのもとに説得できなくてはならない。
 多様な人間の偏った思考に対して、絶対的な説得力を有している人間が可能であるとすると……それはおそらく、あらゆる誤りを理解し、それを自らの内側に含めることのできる存在だろう。そして、それを己のもののように扱うことのできる存在であろう。

 そのような存在が可能であるかどうかは答えが出せない。ただ、このように考えられる、というだけである。そしておそらくは、それに近づいていくことは私たち偏りある人間でも可能であろう。

(また別の方向への思考になるが、「何も考えていないこと」や「何も知らないこと」を偏りがないと定義するならば、また別様に考えていくことが可能だが、私たち自身のことを考えるならば、私たちはもうすでに多くの偏った知識と思考を持ってしまっていて、しかもそれを一部ならともかく、全てを手放すのは不可能なので、その方向で考えていってもあまり面白くない)


 「もし」で考えていくと、思いもよらず自分の認識や思考が、その「もし」の逆と重なることがある。この場合「いずれにせよ」と言うことができる。どちらが正しかったとしても、最終的に同じことが結論されるのならば、その結論の妥当性はより高いものと言える。
 この場合だと「私たちの認識や思考はいつも偏っているので、偏りなくあろうとするよりも、より多くの偏りのことを知り、尊重できるようになるべきだ」という結論が導き出される。偏りない認識や思考があろうとなかろうと、私たちは他者の偏った認識や思考について、できるだけ理解し、尊重しようと努めなくてはならない、というわけだ。


 こういう思考は楽しいし、何よりも、異なるものや相反するものを調和させ、自らの中に組み込むことができる。
 より多くのものを認め、愛することができるようになる。

 「もし」で考えてみよう。

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