哲学と科学の違い 現代の哲学はなぜこんなにも役に立たないのか

科学と哲学はどう違うのか
どうして分離したのか

 定義的な方法はなく、歴史的な方法で明らかにしたいと思う。

 哲学(philosophy)は、当然ながら古代のギリシャに由来する。知を愛するという意味で、新知識人、知者という意味に該当するソフィスト(sophist)と区別されて用いられた。
 これはつまり「私は知者である」と主張するソフィストに対して「私は無知だが、知るということを愛する賢者である」と主張することにその後の起源があるわけだ。当然ながら、ソクラテスの「無知の知」を思い起こさせる。
 その後、プラトン、アリストテレスなどが出現し、哲学に体系が生まれることになった。(ピタゴラス、ヘラクレイトスらの影響も強い)(プラトン自身は己の知をほとんど体系化しようとはしなかった。しかし弟子たちが詳細にまとめたため、結果的にイデア論が体系化の方に向かっていった。プラトンが体系化しようと努めた部分があるとすると、法律論の方である)
 ローマの興隆の時代に合っても、アテナイのアカデメイア(プラトン創設)とリュケイオン(アリストテレス創設)、アレクサンドリアの大図書館などには学者たちが多く集まっていたし、基本的に彼らは哲学者を名乗っていたようだ。いろいろな分野の細分化はあったが、今でいう「学問」という意味で「哲学」が使われていたと思われる。(というのも、その時代においては哲学以外の学問が存在しなかったのだ)(実験主義的、つまり科学的な分野すら、哲学の内とされていた)

 自然科学(science)は、十七世紀の学問全体の大きな変化(地動説、万有引力、等)に伴って、他の学問(哲学や神学等)と区別されるために産み出された語だ。
 つまりそれまで哲学とされていたものがあまりにもぼんやりとしていて不確かかつ役に立ちづらいものであったから、そうではなく、実用的かつ確実な学問のことを自然科学というくくりで捉え、分断したのである。

 そうなったのには、中世のスコラ哲学に直接的な原因があると見てもいい。

 スコラとはスクールの語源であり、スコラ哲学とは言い換えれば「自由哲学」「余暇哲学」である。ただし、キリスト教の影響下にあったスコラ哲学は、神学が中心となり、その下位に他の学問があった。そしてその場では、神学は哲学と分離され(いつの時代も、重要とされていた分野が哲学の枠から独立し、区別される傾向がある)「哲学は神学の侍女」と呼ばれていたくらいであった。
 基本的に学問の目的は、キリスト教の神を理解し愛するためであり、それに反する学説や事実は闇に葬られ続けていたわけだ。

 ルネサンス以降、その影響力は徐々に弱まり、デカルトがスコラ哲学を全て排除したうえで、数学に基礎を置いた新しい学問体系を作り出そうとした。(そのころ、「哲学」という語は、「弁論術」に近いニュアンスとなっていた。つまり、重要とされた学問の分野が全て哲学から分離され、哲学とは別のものとして扱われていたのである。それは、学校の教育課程の名称の細分の影響もあると思われる)
 ある授業では「詩学」を学び、ある授業では「数学」を学び、ある授業では「神学」を学ぶ。それと並列して「哲学」の授業をやるのでは、そのような観念で捉えるのが当たり前になる。デカルトの時代ではすでにそうなっていたことが、彼の著作にはっきりと書いてあった。
 古代ギリシャにおける「知ることを愛する」という意味での「哲学」が、少なくともルネサンス後期にはかなり薄まっていたのである。

 そこで、カント等、ドイツの大学教授たちが「哲学」という語の意味をさらに変化させていく。
 自分の頭で考えることや、対話の中で論を成長させていくこと。それ以降は、哲学の語は、それを語る人間によってまったく別の意味、ニュアンスの語として用いられてきた。

 そんな中、自然科学(自然哲学という名称が用いられていた時代は長いが、それの意味するところは自然科学と大差なく、他の不確かな学問とは違うのだという強い意識が含まれるため、科学と同様の語として取り扱う)は、数学と実験に基礎を置いているため、確実な前進が見込める学問として、その価値を急速に高めていた。
 時代を追うごとに学問は「自然科学とそれ以外」として分けられることが増えた。「理系と文系」という歪んだ区別も、そこに起源があるように私には思える。

 ここまでだと、哲学の方は全く成果を残せなかったように見えるが、実際にはそうではない。ルソーの社会契約論、マルクスの資本論などは、世界全体に強い影響を残した。(たとえそれが……社会の動きの中で必要とされたから取り上げられたのであって、それ自体の影響ではないとしても)
 ただ経済学や社会学も、それが発展するにしたがって当然のように哲学という語から分離された。
 論理学も同様、それが役に立ちはじめ、重要になればなるほど「それは哲学の一部である」という意味や意識、ニュアンスは失われていく。

現代の哲学について

 さて、現代の哲学の話をしよう。
 現代の哲学は、空になった鳥の巣なのだ。
 考え続けられた結果、役に立つと分かったものは、全て専門化し、哲学の枠の外に出て行った。まだ全てがそうなったとは言い切れないが、しかし多くの元々「哲学」とされていたものは、今では別の名を持ち、別のやり方で日々研究されている。
 残ったのは、ただぼんやりとした中身のない「他のどの学問でもない哲学」である。
 歴史学でもない。数学でもない。物理学でもない。天文学でもない。論理学でもない。もちろん、総合的な学問でもない。
 哲学とは何であるか。
 現代においては、悲しいかな「全ての学問-あらゆる細分化された役に立つ学問=哲学」なのである。
 役に立たないのは当然である。
 言葉を選ばなければ、あらゆる学問の残り滓なのだから。


 私は、学問としての哲学に未来を見ない。それはもはや道楽に過ぎず、生きる目的には値しない。

 ただ、私は古い意味での哲学が好きだ。「知を愛する」という態度が好きだ。
 ソクラテスは学者ではなかった。学ぶのが好きな賢者であったというだけのことであった。

 私は古い哲学が好きだ。現代でも、好きな著者はいる。結局は、その人が学ぶことや考えることを楽しめているかどうかが重要なのだ。
 本を読むということは、並んで歩き、話を聞くということによく似ているのだから。
 あぁ、そうなのだ。並んで歩き、共に考える。それこそが古き良き哲学の姿であったはずなのだ。

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