とりみき

<茫漠たる手前勝手なCD名盤ご紹介>#10

さて今回のCD名盤ご紹介、10回目を記念して。

ついに、ようやく山下達郎である。今年2016年は1stソロアルバムリリースから40周年である。

今回ご紹介する中心アイテムは1977年6月発売、2ndアルバム『SPACY』。そして1978年12月発売のスタジオ3rdアルバム『GO AHEAD!』の二枚だ。

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 10代、20代のお若い方でも、山下達郎の名前と”クリスマスイブ”という毎年年末になるとTV/ラジオその他メディアで流れる、大ヒット曲はご存じであろう。

しかし音楽を志す方で、万が一その名前とその曲しか知らないという人がいれば、その方は自身の無知を恥じ、不明を嘆くべきだ。

日本における至宝のメロディメーカー、あらゆるPOPSの達人、こだわり抜いた音の職人、コーラスワークのプロフェッショナルで、比類無き孤高のヴォーカリスト。さらにCD・レコードのみならず、多アイテムの研究者レベルのマニアで、頑固一徹の名アレンジャー/プロデューサーであり、いわゆるひとつのMusicians’Musician。

どれもその通りなのだが、個人的には<山下達郎>という人は「日本一のカッティングギターの名手」であり、「ロック魂の体現者」であり、「本質を見抜いた一流の芸人」であると共に、とても真似など出来ないし恐れ多いが、僕にとっては「音楽業界における永遠の師匠」なのである。

 70年代中盤からドゥ・ワップ/ソウル/ファンク等の黒人音楽のテイストを日本で継続的に表現出来た数少ない先駆者であり、そのようなミュージシャンは彼以降10数年後の久保田利伸の登場を待つほか無く、山下達郎が醸成させた国内の音楽シーンにおけるブラックミュージックの定着は、その後の音楽業界に多大な貢献をしてきた訳で、R&Bがどうちゃらとか言ってる今どきの連中は爪の垢でも煎じて飲むしかない。

 1970年代中~後半、日本国内で洋楽は一定数のファンが居て、これまで書いてきたように名盤続出の時期でセールスも順調だった。

ただ国内の音楽シーンは、いわゆる歌謡曲が圧倒していて、フォーク勢が時折チャートを賑わしていた程度で、荒井由実などがいずれ「ニューミュージック」と呼ばれる日本のPOPSの一端を切り開こうとしている時期だった。

日本のロックは、故大瀧詠一氏率いるはっぴいえんど~ティン・パン・アレーなどが多少は知られていたが、大ヒットというにはほど遠かった。

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 そんな1975年春、山下達郎は最初で最後の参加バンドであるシュガー・ベイブのアルバム『SONGS』をナイアガラ・レーベルからリリース、念願のバンドデビューを果たすが、一部のファンにしか評価されずセールスも伸び悩んでいた。

*ネットで見つけた当時の「シュガーベイブ」フォト。大貫妙子押しが一目瞭然・・笑。

 このあまりの名盤『SONGS』が再評価されるのは80年代に入った以降で、その後何度もBOX化やリマスター盤などで再発され、去年(2015年)は40周年記念盤でリリースされている。

翌1976年3月、師である故大瀧詠一と伊藤銀次によるナイアガラ・トライアングル名義で『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』を発表。だが鳴かず飛ばず。

その直後シュガーベイブは、さまざまな経緯を経て、結局売れないまま、同年76年春に解散してしまう。解散ライブは荻窪ロフト。

*こちらもネットで見つけた大瀧氏との写真。『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』リリース時よりはもう少し後年か。

 山下達郎は76年ソロアルバム制作の直前、大瀧詠一の福生の家に入り浸っていた。

大瀧と知り合って3年経とうかとしている時、ある日ようやくお許しが出て彼の所有する膨大でレアなレコードを一人で勝手に聴ける事になり、三日三晩寝ないで聴き続けたそうだ。

「音楽聴くのが好きだから・・」だけでは、そんな事は出来ない。
山下達郎は音楽で生きていくために「仕事」としても、そのコレクションを聴かざるを得なかったのだ。そんなチャンスは二度とないかも知れないから・・。

 そして山下達郎はソロミュージシャンとして活動を開始、76年夏にレコーディングをスタートさせ、1976年12月、ソロ1st『CIRCUS TOWN』を発売する。

ソロデビューでNYとLAでのアメリカ録音、さらにミュージシャン・アレンジャーを本人が指定する、というかってない待遇でのレコーディングだったが、これまた残念ながらたいして売れなかった。

『CIRCUS TOWN』は、いうまでもなく名曲揃いの大名盤なのだが、当時はあまりにも全国的に認知されなかったし、一部の評価にとどまっていた。

そして翌77年5月、今回ご紹介のソロ2nd『SPACY』を発売する。

1stアルバム制作時のアメリカでの知識を礎に、24歳(!)の山下達郎は全ての作曲・アレンジ(ブラス・ストリングスも!)をたった一人で行い、この大傑作アルバムを作り上げた。

どうやら古くからのファンの方々も、今でもこのアルバムが最高傑作と評する人も多いらしい。

とにかく一曲目の”LOVE SPACE”からラストの”SOLID SLIDER”まで、現在でも超人気曲である名曲揃いで、何度聴いてもそのサウンドを構築した才能とセンスの凄さに慄然とする。

僕はライターではないし、音楽を言葉ではうまく表現する事が出来ないので「いいから、聴け!」と言うしかないが、あまりにも圧倒的な内容だった。

とはいえ、これもたいして売れなかった。

翌78年、これも名盤との評価が高い2枚組ライブアルバム『IT'S A POPPIN' TIME』を5月にリリース。

要はライブ盤だと制作経費が押さえられるという苦肉の策だったらしい。

今考えると超豪華なメンツ、村上PONTA秀一(Dr)岡沢章(B)松木恒秀(G)坂本龍一(Key)に吉田美奈子などのコーラスという名演奏アルバムである。

キャパ100名程度の六本木ピットインでライブ録音された本作は、ブレッド&バターのカヴァー名曲”ピンク・シャドウ”や、吉田美奈子作品の”時よ”などを収録しており、今でも誰に聴かせても、本人のヴォーカリングとギターを含めた収録曲のライブ・パフォーマンスの高さに絶句するはずだ。必聴です。

もちろんこれも当時はたいして売れなかった。

さらに同年12月スタジオでの三枚目『GO AHEAD!』が発売される。

過去のアルバムのセールスが伴わない焦燥感の中、制作内容はある意味開き直りの、さまざまなサウンドにチャレンジした冒険作だが、にしても超名盤である。

オープニングの一人多重録音アカペラ”OVERTURE”に続き”LOVE CELEBRATION”を初めて聴いた時は、ついに洋楽に追いついた、と感動した。

さらにB面の一曲目(当時)”BOMBER”のサウンドを聴いたショックはとめどなく、田中章弘のチョッパープレイは、本当に自分がベースを止めて良かったと再認識したものだ笑。

またコンサートの大定番曲”LET'S DANCE BABY”やバラードの超人気曲”潮騒”などどうしようもない名曲揃いで、あまりのアルバムの充実度とそのジャケット(笑)に畏怖の念を抱いた。

これも「いいから、聴け!」と言うしかないが、やはりたいして売れなかった。

ただ当時のディスコブームに乗っかる形で、シングルのB面だった”BOMBER”が大阪のディスコで流行り始める事によって、風向きが少し変わってきたのである。

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 そのちょっと前77年~78年頃、下北ロフトで超満員の中、多分バックスバニーあたりのゲストで何曲か唄った達郎さんを見たのが、僕自身の初の「生達郎体験」で、レコードよりも巧く唄える人が実在する事実に感銘した。

そして『GO AHEAD!』発売の直後、とあるレコーディングで達郎さんの一人コーラスダビングに立ち会う事が出来たのだが、その技術の凄さに腰が抜けそうになり、一生忘れる事が出来ない。

”BOMBER”がきっかけとなり、その後少しはセールスが伸びてきたのだが、いわゆるブレイクは79年4作目の『MOONGLOW』を経て、タイアップでヒットした先行シングル”RIDE ON TIME”を含む、1980年9月発売の5thアルバム『RIDE ON TIME』のチャート1位を待つしかなかった。

シュガーベイブ『SONGS』発表から、5年である。

*1980年とあるラジオ番組でのスタジオライブ収録メンバーとのお宝写真。実は筆者も写っています笑。

「売れた事によって、制作費に悩まなくてすむ事になったのが、一番嬉しかった」と述懐している達郎さんだが、『RIDE ON TIME』の発売直前、レコード会社で遭遇した際、そのアルバムがヒットする事を確信していた達郎さんから「これ、あげるよ」とサンプル盤を頂いた時の、本当に嬉しそうな笑顔は今でも脳裏に焼き付いている。

「クリスマスイブ」のヒットなんて、ずっと先の話である。

この稿終わり。


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