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「音楽no無駄na昔話」 vol.3

<僕の音楽仕事に関わるどうでもいい昔話>

役に立つかどうか全く判りませんが、僕が若い頃、やってきた事、経験してきた事を駄文にしてみました。

かなり個人的だし、例によって不遜なクソ長文なのでホントに興味ある方だけお読みください。

多分ミュージシャン向けではありませんが、多少は関係しているかもです。逆にスタッフ志望の方にはオススメ。

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僕は今に至るまで、詩も曲も書いたことが無い。

楽器もほとんど弾けないから、もちろん演奏も出来ない。

音痴なので歌も歌えない。

楽曲の基本的な創作に一から関与したことは、一度も無い。

当然、譜面も読めない。別に耳も良くない。

そんな訳でミュージシャンには絶対なれないという事は、早い時期に自覚していた。

でも子供の頃から音楽を聴くことは人一倍やってきたし、コンサート・ライブも可能な限り観て来た。

TVでたまにやる、洋楽の音楽番組や映画は必ずチェックしてきた。

高校の頃、デートの最中に用事があると言って、日本初放映の「イージーライダー」を見るのに、相手を公園に放っておいて帰宅したことがある。

もちろん その後、その娘には振られたが笑。

大学に入り「音楽鑑賞」は趣味の域を超えていた。

十代の終わり、僕はどうしても音楽の仕事に関わりたかった。

バイト先で好きな音楽の話を誰彼無く話し続けていたら、なぜか先輩スタッフの方から声が掛かった。

1977年前後、とあるフリープロデューサーのアシスタントとして、レコーディングの仕事をお手伝い出来ることになった20才くらいの頃。

最初はスタジオに行ってもだれかの言う通りの事をするだけだった。

主に肉体的な笑。

でもレコーディング現場に立ち会える幸運。

先輩スタッフやプロミュージシャン・エンジニアの判断やチョイスを作業の傍ら横目で見て盗み聞きし、音と共に覚え、体に取り込む努力をしてきた。

夜、仕事を終え、自宅に帰り、無理やり貰ったその日のダビング後のカセットを聴き、楽器は弾かずに耳で様々な確認をした。

レコーディングやMIXの現場は音源それぞれの「音」を聴き分けるのに、圧倒的に勉強になる場であった。

「耳」は鍛えられるのだという事を知った。

誰かの現場での失敗やそれに伴う叱責は、申し訳ないが、最も勉強となり自身の記憶に焼き付けた。

REC最中、時間が空くと、その時暇そうな人を見つけて質問しまくった。

どんな初歩的な質問でもみんな嫌がらず、ニコニコして答えてくれた。

ちょっと「当たり」の質問すると、数倍の知識を教えてくれた。

ミュージシャンのプレイに「さっきの〇〇〇みたいでめちゃ良いですよね」とか言って、外れてなければ凄く喜んでくれた。顔と名前を憶えてくれた。

自分が好きで聴いてる英米音楽の知識と感覚を持っていれば、譜面やコードやエフェクターやエンジニア技術の知識が無くても、楽器が弾けなくても、プロの方々と会話が成り立つことを知った。

作ろうとしている音源をより良くするための、判断や選択や基準が少しづつ見えてきたのだ。

誰かが何かをすれば、それが使われ、必要とされる限り、ギャランティや評価が発生することを知った。

ビジネスとは何かの本質を僕は現場で見聞し、覚えた。

必要とされないことをした時には、またはやるべき事をやらなかった場合には、何らかの問題やペナルティが発生することも理解した。

しかし、それはやってみるまで全く分からないのだ。

だからやるしかない。

まだまだ駆け出しだった20歳の頃、幾つかのレコーディングが同時機に重なり、先輩プロデューサーもアシスタントの僕も、毎日どこかのスタジオで作業に取り組んでおり、疲れもピークだった。

ある日、歌入れ終了後、プレイバックを聴き終えてどうしても我慢が出来なくなって、

「この箇所って、追っかけのヴォーカルかコーラスが入った方が良くないですか?無いと変じゃないですか?」

と、先輩プロデューサーに進言してしまった。

すると先輩プロデューサーは聴き直してくれて、

「うむ、まあそうだな・・、よしじゃあ、〇〇ちゃん、そこだけ歌って」

僕の判断が音源に残った最初の出来事である。

勇気を出して口にすることが、何よりも重要だという事が判った日だった。

その後、音楽にかかわる様々な仕事を体験した。

80年代に入り、仕事が多岐に渡ってきた頃。

僕は現場に行く以上は、何らかの行った価値を残したかった。

なので勇気を出して「口出し」した。それは単に僕の我儘とも言える。

ただし、その「口出し」が的を得てれば、次回も意見を求められた。

リハスタでプロミュージシャンがヘッドアレンジをしている時も、思いついたら口をはさんだ。

無視される事の方が多かったし「黙ってろ!」と、どやされた事もあった。

時々だが「お、それいいね」とか「あ、それでやってみよう」とか意見が通ることも増えてきた。

知らないし、解らないにもかかわらず、イントロやエンディングの在り方、コードの響きや小節数まで口出しした。

その後、ライブの曲順決めとか大得意だったし、曲繋ぎのアイデアやタイミングなどにも意見を挟んだ。

判断基準はもちろん、「お客目線」だ。

そうした方がお客がぐっとくる、興奮する、感動するというのを僕なりに知っていたから。

演奏する側には判らない次元の「音楽ユーザー」からの感覚・目線・要望を、プロフェッショナルは理解し、アイデアを求める。

22,3歳のただの現場マネージャーが、数千キャパのコンサートの選曲・曲順決めまでやらせて貰えた。

その後、某著名アーティストの全国コンサートツアーの選曲を、総合プロデューサーの要望で、音楽監督と僕の三人でやっていた事もある。

さらに、レコーデイング現場でも頼まれもしないのに「口出し」した。

良かれと思った事は何でも口にした。誰かの判断に異を唱えた。こうあるべきだと講釈した。意見が通らないことも多かったが、止めなかった。

80年代初旬、その頃は単なるアレンジャーのマネージャーだった僕は、スタジオにただ居るのが退屈で、余計なアイデアや録音に関する判断を、ディレクターやアレンジャーの前で幾つも口出し続けた。

ある日、ダビング終わって、その後歌入れという時、メーカーのディレクターが「オレ、次があるんで、お前代わりに歌入れしとけ」と帰ってしまった。

そのシンガーソングライター本人も「あ、了解です、お疲れ様です」とか言っている。

アレンジャーも家で書きがあるからと帰ってしまう。

仕方ないのでエンジニアと本人と歌入れ作業をやったのが、僕にとっての最初のディレクションである。

80年代半ば、アレンジの打ち合わせで、もはや売れっ子になった担当アレンジャーと二人でメーカーに行く。

始めましてのディレクターがプロ作家のデモテープをカセットに掛けると、アレンジャーはおもむろに五線紙を取り出し、小節を区切って聴きながらコード進行を同時に書き始める。

その時点でディレクター、目を白黒させている。

曲が終わると僕が、

「あーこれは〇〇〇の感じですね、サビは字ハモとウーアー物両方あった方が良いですね。」

「この手はドラム〇〇が得意ですよね。ベースは〇〇か〇〇ですね。」

「テンポはどうかなー?にしても(作家の)〇〇さんさすがですねー。」

で、アレンジャーに「間奏はギターかな?サックスも有りだよね。」

アレンジャー、

「まあ、どっちかだね。あー2コーラス目はAは一回で良いですよね?」

「大サビないんだったら転調とかしときますかー?イントロはシンセ打ち込みますねー。」

「テンポはちょい速くしますか。決定はスタジオでー。ほんと良い曲ですねー。」

打ち合わせは10分で終わる。


上述したように僕は作詞・作曲・演奏能力は皆無である。

しかし詩や曲を直したり、レコーデイングで演奏のテイクを直したり、選んだり、歌のディレクションは、それなりの回数がある。

詩や曲のコンセプトを提示したり、そのミュージシャンの個性や良いところを助言して、方向性を話したりした事も何度もある。

まあ現場や打ち合わせで、そこまで好き勝手言っていればやらせてみようという気に、他人はなるのかも知れない。

とあるレコード会社に呼ばれ、そこの制作部長から鳴り物入りの新人女性シンガーのデヴュー盤制作を任された事がある。

事務所の社長も同席していて、こうしたい、ああしたいと話していたが、コンセプト決めから僕に任せると、制作部長は社長の意見を一蹴した。

僕はアルバムコンセプトを考え、サウンドプロデューサーを選び、作家に楽曲を発注選択し、直し、アイデアを出しアレンジを任せ、ミュージシャンを選び、スタジオスケジュールを組み、予算配分をし、現場を仕切り、REC・MIX・マスタリングに立ち会った。

さらに、ジャケットのコンセプトを出し、アートディレクターを選び、ジャケ写撮影も行き、ジャケットの最終判断をした。

そしてリリース時のプロモーションライブのコーディネイトを全て行った。

もちろんギャラはたっぷり貰った。ついでに次作の発注も貰った笑。

何らかの形で関わったアルバムは何十枚もある。

しかし正式な立場としてディレクターをやった事は、実は1,2枚のアルバムしかない。

基本的な僕のスタンスは、マネージャーだったり、コーディネーターだったり、経営陣の一角だったからだ。


どんな仕事でもそうかと思うが、仕事内容は職責や立場だけで決まるものではない。

もちろんそれらが成長を促すことは事実だが、本人ののめり込みも必要かと考える。

好きな仕事でなければ、辞めるか、さもなければ好きになるように自分と周りを変えていくしかない。

しかし、好きな仕事であれば知識や技術や経験や才能や報酬など関係なく、やれることを遠慮なくやるべきだ。そんなものは後で付いてくる。

「それはやっちゃダメ」と言われるまで、思いついた事をやり続けるのだ。

空気など読む必要はない。好きな仕事だったら目立ちまくれ。

外部と関わるときには、出来る限り自分の判断で行動しろ。

いちいちお伺いを立てるな。報告だけしておけば良い。

その時怒られたのなら、次回から直せばいい。

もし間違ってないと思うのなら、内部外部問わず戦え。

戦わない奴は、どこでも「戦えない奴」と思われるだけだ。

責任を取るのが怖いのだったら、上司やクライアントをうまく巻き込め。

こうした方が良いと思うのならば、嘘をついてでもやり通せ。

決して負けるな。

そして同時に自分の「判断基準」を作るために、見つけるために死に物狂いで勉強するのだ。

見つけたと思う「判断基準」はいつのまにか進化・変化する。

柔軟に対応せよ。

そのうち、その「判断基準」が周りから認められる。

すると好きな事ばかり出来るようになる。ここまでは良い。

しかし飽きてくる。僕は本当に我儘だ。

90年代終わり、音楽業界のマーケットと業務内容と立ち位置が自分の納得できるものでは無くなってきた。

仕方ないので新会社を立ち上げたが、ITビジネスの潮流の流れはあまりに早くて、別業界の怖さを思い知ったのだった。

この稿終わり。

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