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見るために、目を閉じる

「私は、見るために目をつぶります」
これは、画家のポール・ゴーギャンの言葉です。

目をつぶると、どうなりますか?
物理的に見ることは不可能になります。
では、視覚を使わないことで、何が見えるようになるのでしょうか。


現代、私たちは身体の中で最も目を使っていると言われています。
朝はスマホでSNSをチェックし、昼間はPCの前に座ってディスプレイを眺め、夜はテレビやYouTubeを見ます。
「百聞は一見にしかず」ということわざもあるように、目はとてもパワフルな器官です。

しかし、私たちは本当に見ているのでしょうか。
見ているとすれば、何を見ているのでしょうか。


先日、知人のSNSの投稿を見ていて疑問が湧きました。
そして何気なく、ほとんど反射的に、私はその疑問をコメント欄に書き込んだのです。
それは私の中から湧き起こる、単純な疑問でした。
その疑問を持つことは悪いことではないと、今でも思っています。
しかし、彼女の投稿へのコメントとしては、適切ではありませんでした。
結果的に、彼女を傷つけてしまったのです。


私は、何を見ていたのでしょうか。
本当に、見ていたのでしょうか。


その出来事を受けて、私はしばらく考えました。
そして、コミュニケーションにおける発信と受信に思いを巡らせました。

テレビやYouTubeだけでなく、SNSもまたメディアです。
YouTubeやSNSはコメントができるので双方向に見えますが、リアルなコミュニケーションのそれとは異なります。


また、テレビ番組の視聴は受信のように見えます。
しかしそれは、視覚以外の感覚を放棄した受信です。
一人で、あるいは家族や友人と一緒に、番組に対してコメントするかもしれません。
しかしそれは、相手が目の前にいるコミュニケーションとは異なります。
そのコメントは、明らかに発信なのです。


リアルなコミュニケーションにおいて、私たちは相手のために受信者になることができます。
共感を持って、応じることができるのです。

相手が喜んでいれば、その喜びを讃えることを選べます。
相手が泣いていれば、何も言わずに横に座ることを選べます。

そこには相手を感じるための五感が存在します。

相手とのコミュニケーションにどのくらい五感を使えるか。
ここに受信者としての私たちの価値が試されています。


メディアは、私たちが真の受信者になろうとすることを阻みます。
私たちの五感を、いとも簡単に奪おうとします。

それに抗うために、私は、目を閉じます。

目を閉じることで、私は一時停止の時間を選択することができます。
私の感覚を呼び覚まし、相手のために五感を使うための準備ができます。


皆さんも、相手のために五感を使えていないと感じることがあれば、静かに目を閉じてみてください。
そして深呼吸をし、自分に問いかけてみましょう。


私は、何を見ているのか。
私は、何を見ていないのか。


「私は、見るために目をつぶります」
画家であるゴーギャンは、目を閉じて、何を見ようとしたのでしょうか。

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