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藤田とピカソの共通項とは?~戦争画よ!教室でよみがえれ㉛

戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。
 目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画で学ぶ「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治の〝戦争画〟を追って(「藤田嗣治とレオナール・フジタ」改題)


◇はじめに

  この戦争画シリーズの最後の章は『藤田嗣治の〝戦争画〟を追って』である。当初は『藤田とフジタ』というタイトルを考えていたが改題する。

 これから書こうとする文章は、藤田嗣治の戦争画擁護論である。まずはこの立ち位置を明確にしておきたい。いったい何から藤田嗣治を擁護しようとするのかと言えば、戦後に作られた〝平和〟という仮面を被った偽善から、である。

 藤田嗣治を含め戦時中の戦争画家たちはこの亡霊のような〝平和〟に人生を狂わされてきた。その中でも藤田作品への〝平和〟主義者たちによる悪し様な批評は醜悪そのものである。この〝平和〟主義者たちへ正面から批判を加えなければ、戦争画と戦争画家たちは永久に日陰者扱いのままである。

 だが、このような〝平和〟主義者たちとは違い、真摯に藤田作品を研究し、日本美術界の未来への礎にしようという気概ある専門家もいる。こうした人たちの研究成果からも学ぶことで藤田作品の真実に迫り、擁護論の基礎としたい。 

 そこで2つの構成は次の順番になる。

(1)藤田・戦争画の日本史上、美術史上の意義を明確にする
(2)藤田・戦争画に対する根拠のない批判に反論を加える

 どちらも美術の専門家による論評を批判的に検討する形で進める。
 
 なお〝平和〟主義者たちの藤田批判はおおよそ以下の5点に分かれれる。

①戦争画を軍部に要請されて描いたからダメ(軍隊悪魔論)
②戦争画を描くことへの苦悩がないからダメ(苦悩ゼロ論)
③戦争画を描くことは戦争を賛美し扇動することになるからダメ(戦争扇動論)
④戦争画を描いた者だけが配給で得をしたからダメ(配給不公平論)
⑤戦争画を描いた責任を取っていないからダメ(戦争責任論)

 上記①~④はほとんどが⑤に行き着く。つまり、戦争を主題にした絵を描いたら最後〝平和〟主義者たちは「責任」を取るべきだ、と迫るのが一般的である。

 ところが、これらの論者たちの文章にはまともなロジックがない。それでいて対象が言語化の難しい美術作品だから大抵のことは何を言っても許されるという甘えが見られる。無論、作品を見てどんな感想を持とうとそれはその人の内面の問題であり、個人の自由なのだが、画家個人への人格攻撃と思われる表現を使うのは言論活動上のルール違反だろう。

 (1)については6人、(2)については4人の美術専門家の文章を検討対象とする。以下はその(1)の第1回である。

(7)藤田とピカソの共通項とは?ー藤田嗣治の〝戦争画〟を追って①

 矢内みどりは大学で美術史を専攻した後、目黒区美術館で学芸員の仕事を30年以上続けている。その著『藤田嗣治とは誰かー作品と手紙から読み解く美の闘争史』(求龍堂 2015年)からは学ぶことが多い。
 
 矢内はこの著書で、藤田を念頭に読者に対して「画家が戦争画を描く」ことの意味を問いかけ、藤田の中では秋田の街や祭りの風景を描いた大画面の『秋田の行事』と戦争画は「同じ線上のこと」ではないかとして次のように言う。

「戦争記録画の当初の目的は戦意高揚であったはずだが、藤田の作品はやがてそれを離れて、戦争の惨状と人間の悲劇を描き出し、西洋絵画の伝統に学んだ藤田の、群像を大画面に収める構図を完璧にする、という高度な技量を示すことになった」(p32~33)

 つまり、藤田は自身の画家としてのある能力をいわば極限まで追求することが「戦争」という主題に取り組んだ一つの理由だ、という指摘である。氏はさらに続けて言う。

「そして、《サイパン島同胞臣節を全す》を見れば、藤田がもはや西洋の巨匠たちの歴史画の構図を踏襲しただけでがないことに思いが到る。それは画面左から右へ時間の経過をともなう場面の展開を感じることができるからだ」(同書 p33)

 矢内はこれは日本の絵巻物の手法なのだと喝破している。
 
 振り返ってみれば、ヨーロッパを席巻した藤田のあの「乳白色」は浮世絵の美人画がヒントであり、西洋人を感嘆させた繊細な線の描写は日本画の面相筆によるものだった。藤田は西洋人にはない要素を日本美術の歴史の中から見つけ出し、応用している

「そこで私は、西洋人の真似をしたって、彼等以上に良い絵はかけないから、俺が先祖から持っている日本画のすぐれた処を取り入れて、独特の絵をかきたいと考え、手紙の端とか、日本紙の紙ぎれを、大事に集めて、それに色々とかいたりしてみました。つまり、私の勉強の仕方は、従来の日本の留学生が西洋人の真似ばかりしている、その逆の態度でいった訳です」-昭和13年5月-(藤田嗣治『随筆集 地を泳ぐ』(平凡社ライブラリー 2014年 p341)

 アッツ島でもその技量はいかんなく発揮されているし、サイパン島の群像画は絵巻物の手法で描かれているという氏の指摘は率直に首肯できる。矢内は「藤田の作品は、西洋美術における、ジャポニズムの最終章である」とまで言っている。
 
 この指摘は、絵画表現ということに着目したときに藤田の戦争画を正しく評価するためにも見逃してはならないが、さらに矢内は重要な指摘をしている。

 それはピカソと藤田の共通項である。

 矢内も著書で引用している『ゲルニカ』についてのピカソの有名なコメントを見てみよう。最後の一文に着目してほしい。

「芸術家を何とお思いか。画家なら目、のほかになにももたない愚か者とでもお思いか。それはとんでもないかんちがい。芸術家はそれだけでなく政治的な存在でもあり、世の中の悲しみ、情熱、あるいは歓びにもつねに関心を抱き、ただその印象にそって自らをかたちづくっている。他人に興味をもたずにすませるはずもない。日々これほど広く深く接する暮らしそのものから、冷めた無関心を装って、自らを切り離すことなどできるはずもない。いや、絵はアパートを飾るために描かれるのではない。絵は戦争の道具です」(ラッセル・マーティン、木下哲夫訳『ピカソの戦争《ゲルニカ》の真実』白水社 p159)

 矢内はこのピカソの言葉を引用してピカソと藤田の共通項を次のように指摘している。

「国家の命運をにぎる戦争という大きな渦の中で画家としての発言を作品として残した」(p37)

 ここに共通項を見い出した矢内の慧眼は素晴らしく、かつまことに重要であるが、私はピカソの言葉の最後にある「絵は戦争の道具」という表現に着目すべきだと考えている。

 ピカソの言う「絵は戦争の道具です」はどういう意味なのか。

 私は、このピカソの言葉は最後の「絵は戦争の道具です」という一文を隠して引用されることが多いという印象を受けている。最後の一文を抜いて読んでみると、いかにもピカソが戦争を憎む「平和」主義者として発言しているかのような印象を与えるのだが・・・。

 宗教学を専門とする石川明人は「武器」の概念がいかに広いか、という点について例証している(石川明人『すべてが武器になる 文化としての〈戦争〉と〈軍事〉』大洋社 2021年)。

 例えばライフル銃は当然ながら武器だが、兵士が携行する無線機、腕時計、方位磁石、も間接的に敵の戦力低下を目的に使われるので武器になる。近代以前の盾や鎧が武器なら迷彩服、ブーツ,帽子、グローブ、サングラスも武器だ。さらに基地で使われる机、椅子、トイレットペーパーも無視できない。腕時計は当時の軍隊が懐中時計を携行しやすいように改造したものだし、ボールペンは気圧の変化でインクが漏れない特性に着目したイギリス空軍がいち早く採用した。他にも数学・幾何学・物理学は古くから築城や弾道計算で用いられてきたし、ポスターや映画等の美術作品も勝利を目的とした活動に使われる武器だろう。

 ピカソの発言もここに当たるーつまり、平和の象徴とされる『ゲルニカ』も武器になる。

 石川は、武器と武器でないもの境界線の曖昧さ、「戦争」「軍事」及びそれに対置される「平和」等の概念の不明瞭さを指摘する。

「戦争という「悪」はそうした物(機関銃、大砲、ミサイルなど特殊な道具 引用者注)を用いてこそなされると思っているから、それらに触れないでいる限り自分は「平和」の側の人間でいられると信じ、気軽に戦争を非難したり、軍備に反対したりする。(中略)どこまでは「武器」でなくてどこからが「武器」になるのかは、どうしても不明瞭であり、結局すべてが武器になるとしか言いようがない」(同書p218)

 ピカソは「平和」を願って『ゲルニカ』を描いたと言えるのか?

 石川の指摘を見れば、答えは否である。すべては武器になるのである。絵も武器である。つまり「絵は戦争の道具」である。

 ピカソは戦っていたのだ。敵は<ピカソにとって>祖国を襲う「侵略者」フランコ政権とナチス・ドイツである。敵を打ち砕くための怒りがあの絵を生んだといってよい。同じく藤田もピカソと同じ怒りをもってアッツを描き、サイパンを描いたに違いない。敵は<藤田とって>祖国を襲うアメリカ、ひいてはアジアへの「侵略者」である西洋列強である。これは当時の日本人がもっていたごく常識的なものの見方だ。

「我々は皆日本人である、俺は日本の為に尽す、こう言うものの、それは当前の話であって、ことさら自分だけが日本の為に忠義をするとか等ということは言う必要のない事ではないか。銘々各自が自己の仕事に懸命に命を捧げて一業に励めば、大業を成就し、人に敬われ人に憧われ、財も集まって来るので、それが国のためになるのであって、自分は忠義をするために忠義をしたのではなく、業を励んで真実国の忠義に知らぬ内になったという
ようなことがの方が、私は面白いと考えた。また本当の事だと思った」(藤田嗣治 近藤史人編『腕一本・巴里の横顔 藤田嗣治エッセイ選』講談社 2005年p39)

 ピカソにとっても藤田にとっても、絵を描くことは祖国を救うための防衛戦争なのである。

 蛇足だが「自分は「平和」の側の人間でいられると信じ、気軽に戦争を非難したり、軍備に反対したりする」の一文は、気軽に戦争画と戦争画を描いた画家を気軽に非難する〝平和〟主義者に聞かせたいフレーズである。「自分は「平和」の側の人間でいられると信じ」ているのだろう。

 矢内はさらにもう一つ重要な視点を提供している。

「スペインのファシスト政権のフランコを忌み、母国には生涯戻ることなく、フランスに留まったピカソの言葉は、藤田と政治的立場は異なるが、故郷への愛情を含め画家としての真情は大いに通じるものがあるだろう」(同書 p37)

 矢内はピカソと藤田は「政治的立場は異なる」という。確かに違うかもしれない(ピカソは後に共産党に入党している)。だが、二人の「政治的立場」の元になる〝基礎〟は同じに見える。

 「政治的立場」の元になる〝基礎〟とはどういう意味か?
 
 ピカソがスペインのファシスト政権を忌むのと同じく藤田もアジアを侵略して植民地化した西洋諸国を忌んでいたのである。祖国を守るために敵に対峙するのはごく当たり前の国際常識であり、「故郷への愛情」が同じと言うことは祖国への愛情=愛国者という共通点があるということだ。これは「政治的立場」の〝基礎〟と言えるものである。矢内はここを指摘しているのである。

 藤田が戦争画を描いた大きな動機のひとつは自分も祖国を守る礎になりたいという強い信念である。それは故郷にほど近い町・ゲルニカを無差別爆撃されたピカソの祖国スペインを守りたいという思いと同じはずで、それは「政治的立場」などを越えたものだ。

 これは当時を生きた日本人・藤田嗣治の戦争画を語るときの基本中の基本だろう。

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