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誇大妄想で藤田の戦争画を曲解する美術評論~戦争画よ!教室でよみがえれ㊴

戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。
 目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画で学ぶ「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治の〝戦争画〟を追って(「藤田嗣治とレオナール・フジタ」改題)

(7)誇大妄想で藤田の戦争画を曲解する美術評論ー藤田嗣治の〝戦争画〟を追って⑨

 椹木野衣は1962(昭和37)年生まれ。私の1歳年下ということになる。大学卒業後に美術雑誌の編集を経て、現在は美術評論家となっている。

 椹木の文章は非常に難解である。

 読んでいて一行進むのも苦痛になる。論旨を追うのも一苦労である。その中の端々に戦争画そのもの、藤田及び藤田の戦争画について気になる論述がある。

(1)あかるい・くらい
 まず椹木は「あかるい」(光という表現もある)「くらい」という言葉で戦争画を語ろうとする。氏は文芸評論家・福田和也の「高橋由一の画業以来、日本の洋画は、戦争画においてその最高点に到達するまで、「くらさ」を描きつづけた」を引用し、以下のように福田氏の意見に自説で変更を加える。

「日本の洋画は、戦争画において中断されるまで、「くらさ」を描きつづけた」(椹木野衣『日本・現代・美術』新潮社 p328) 

 福田は戦争画を「くらい」と言うが、椹木は「くらさ」を中断した戦争画は「あかるい」のだと言う。なぜなら戦争画は聖戦美術であり「名勝や旧跡、さらには偉人」の記録に近いものとして描かれたから、というのが理由だ。

「戦場としての荒野が、地平線の彼方までくまなく広がり、こうして獲得された「雄大な眺望」としての近代的空間は、「壮烈な歴史的場面」を定着すべく、歴史的使命と美のために再構成されたのであった」(同書p328)

 だから「あかるい」と言うが、これは本当だろうか?

 確かに真珠湾とかシンガポールとか中国や東南アジアの名所を描いたものはある。海軍大将・山本五十六や陸軍大将・松井石根の肖像画もある。

 だが、大東亜戦争時の戦争画の主題はかなり広い。「壮絶な歴史的場面」の突撃や勝利の瞬間ばかりではなく、兵隊さんの日常生活、殉死、行軍、銃後の生活、空襲、子ども、老人、果ては富士山の絵や抽象画もある。戦場の「雄大な眺望」もないし「壮烈な」場面でもない絵はたくさんある。そもそもただの風景画もあるのだから、これはあまりにも荒っぽい決めつけだろう。上:小早川秋聲『虫の音』中:猪熊弦一郎『東ビルマ鉄道建設』下:橋本関雪『防空壕』

小早川秋聲「虫の音」

猪熊弦一郎「東ビルマ鉄道建設」

橋本関雪「防空壕」


 ここで補足しておくが椹木は文章の中で、戦争画・「戦争画」・「大東亜戦争記録画」など複数の言葉を使っている。だが、その使い分けにはルールがあるように見えない。ゆえに上記の言葉はすべて大東亜戦争時の戦争を主題とした絵であると考えることにする。

 ところが、その「あかるい」戦争画の中で藤田の「玉砕図」(たぶんアッツやサイパンのことだろう)は「くらい」のだという。

「そして、藤田の「聖戦美術」は、他の「戦争画」が「あかるい」のに対してかぎりなく「くら」く、その「くらさ」において、由一以降の「日本の洋画」の「くらさ」のある「高まり」に位置しているように思えるからである」(同書p329)

 あかるいと言ったりくらいと言ったり忙しい。どうしてこう矛盾したことが言えるのだろう。

 藤田の『アッツ島玉砕』も『サイパン島臣節全す』も全作品の中でピカイチで「雄大な眺望」だし「壮絶な歴史的場面」だが・・・。ちなみにこの後で氏は藤田の玉砕図は「雄大な眺望」「壮絶な歴史的場面」ではないと明確に否定している。ではどんなものがそれに該当するというのか。言葉の定義を恣意的に使い分けているように感じるのは私だけだろうか。

 さらに「藤田の戦争画の「犯罪性」」という表現をしている。「犯罪性」という不穏当な言葉で表現するならその意味と根拠を示さなければいけない。戦争を描いたから「犯罪性」だというなら当時の画家の絵はほぼ「犯罪性」があることになる。なぜ、藤田のみに「犯罪性」があるのか?これを明確にしないと戦後に藤田だけをパージしたエセ平和主義者と同じになってしまう。

(2)前近代・近代
 次に椹木は「大東亜戦争記録画」は前近代だと批判する。

 椹木は「大東亜戦争記録画」は日常のくらしにある「無意味な行為」(例えとして高橋由一のように鮭や焼き豆腐を描くこと)を回避し「だらしなくなさけない現実」を消去して、例の「雄大な眺望」「壮烈な歴史的場面」等の崇高なものがそれに取って代わるのだという。

「わたしたちにとってリアルなものをかぎりなく不透明にしてしまうその超現実性においてこそ、前近代的なのだといわざるをえない」(同書p333)
 

 要するに描きたいものが描けないのは近代以前の制限された文化状況だ、と言いたいのだろう。

 だが、戦時中でも松本竣介は1942年にあの有名な自画像『立てる像』、1944年には風景画『Y市の橋』(1943、1946にも描いている)を描いているし、靉光は1938年にちょっと不気味な抽象画『眼のある風景』、1942年に同じく不思議な絵『花園の虫』、1943年から44年にかけて3枚の自画像を描いている。別に戦争と関係ない主題でも描いているのはなぜなのか?説明してもらいたい。※下:松本峻介『立てる像』

松本竣介「立てる像」

 もっと言うなら「前近代」という言葉で上から目線の歴史観で語るのはよくない。こういうのはいわゆる進歩史観と言うやつで、時代が前に進むと必ず「進歩」している考える現代人の驕りである。そもそも「前近代」の江戸時代にはリアルな民衆の姿を描いた明るい明るい浮世絵があるじゃないですか。

(3)密室殺人
 戦後、河原温という画家が『浴室』というシリーズを発表して話題になったと言う。見てみるとなかなかインパクトのある絵である。

河原温『浴室』

 氏はこれを「密室の絵画」としている。そして、当時の針生一郎の論評を紹介して、針生がこの絵を敗戦後の日本人被害者意識からとらえるのではなく「加害者としての日本人の記憶の持続を看て取っている」ことを高く評価している。

 こうした絵に戦争責任=加害者意識をもって鑑賞することが必要だと言いたいのだろうか。これは推測の域を出ないが、椹木は外国勢力による戦争プロパガンダに過ぎない「南京虐殺」「慰安婦強制連行」「アジア侵略」等を本気で信じているようだ。すでにここから勘違いが始まっている。

 椹木は戦争記録画についてこう言う。

「歴史と使命という密室空間内での猟奇的な殺人の描写であり、そしてまたそのような密室殺人に、自分たちもどこかで荷担していた(いる)という緊張感を、見出せるのでなければならない」(同書p337) 
 

 これは戦争は「殺人」とイコールであり絵画という空間に描かれたものは「密室殺人」なのだという主張である。

 自分が何を言っているかわかっているのか。

 戦争を殺人だというなら父母のため、我が子のため、恋人のため、故郷のため、祖国の危機ために戦う世界中の兵士はすべて「殺人者」だと言っていることになる。

 戦争での相手兵士への攻撃は「殺人」ではない。戦争も人を殺すじゃないか、というならばその行為と意味を分けて考えられない知的怠慢である。ちなみに、互いに武器を所持する戦闘員対戦闘員の戦闘場面おいてはこれを「殺人」とは言わないが、アメリカ軍による空襲も原爆投下も民間人をねらった明らかな「殺人」である。

 だから当時の画家たちが描いた戦闘場面は「殺人」を描いているのではない。祖国を守る国民一人一人の行動を描いたものである。椹木が、戦争のうわべだけを見て戦争画を語っていることがよくわかる。

「「戦中」の戦争記録画こそがほかならぬ「密室の絵画」であり、反対に「密室の絵画」こそが「聖戦美術」としての「大東亜戦争記録画」かもしれないのである」(同書p337)

 戦争記録画=「密室の絵画」で「密室の絵画」=「聖戦美術」・「大東亜戦争記録画」なら4つの用語はすべてイコールということになる。「反対に」と言っているが別にこれは「反対」でも何でもない。ここに出てくる4つの用語は「殺人」でひとくくりできると言いたいのか?だが、それなら上記に書いたようにそれは根底から間違いである。

(4)加害者意識
 (3)で紹介したように椹木は河原温の「密室の絵画」と戦争画等の「聖戦美術」は同類だと括っている。その後者の「聖戦美術」の中でも「ある高まりゆえの自閉の暴露」が藤田嗣治の玉砕図なのだそうである。
 
 どうにもピンとこないのは「ある高まりゆえの自閉の暴露」という藤田の絵に対する評価の言葉だ。この人の文章の特徴は、何の説明もなく「ある高まり」とか「自閉の暴露」とか意味不明な言葉を使うところにある。こうした意味不明な言葉を使うのは、伝えるべき自身の価値判断が明確でないのか、それを伝える自信がないのか、伝えるべき適切な言葉が見つからないのかどれかだろう。

 しかたがないので可能限り推測して話を進めることにする。

 (1)で引用したように329ページに藤田の絵は「その「くらさ」」において「「日本の洋画」の「くらさ」のある「高まり」に位置している」という表現がある。ということは「ある高まり」とは日本の洋画の「くらさ」を考えたときにいわば頂点近くの「くらさ」だということらしい。

 椹木が福田和也の引用で紹介している「くらさ」の説明によれば「くらさ」とはめざすべき「目的地のない」ことで、近代人の「前途は常に「くらく」」て「未来への展望がもてない」ので「くらい」のだと言う。

 ということは藤田は目的もなく未来への展望もなかったということになるが・・・戦争画に打ち込むこの時期の藤田はノリにノっていた。次々と戦争画を描き、生き生きと過ごしていた。どうも椹木氏の使う言葉は事実と合致しない。そういう意味ではないと言うなら説明が欲しい。

 では「自閉の暴露」とは何なのか?

 337ページに「みずからにかつてやどった加害者としての自閉との、終わることのない「内部の戦争」を浮かびあがらせる」という一節がある。例によってよくわからない表現だが、要はこの戦争は日本によるアジア侵略によるもので、戦争中に日本人が酷いことをしたといういわゆる加害者意識が表に出てきたーという状態を「自閉の暴露」と呼んでいるようだ。

 ということは、つまり『アッツ島』も『サイパン島』も未来に展望が見いだせない近代人の頂点に立つ藤田嗣治という画家が大東亜戦争における加害者意識を爆発させて描いた絵だということになる。

 一人の画家の生き方を未来が見いだせないと近代人と独断し、何の根拠もなく藤田が加害者意識を持っていてそれを「暴露」していると表現することが評論の名のもとに許されるのだろうか?その後も次のように書いている。

「それは、彼がひそかにそこに戦争の悲惨さを描くことによって反戦のメッセージを込めた云々などということではなく、藤田の内なる加害者意識の高まりが、結果的に「聖戦美術」としての「大東亜戦争記録画」に定着された「雄大な眺望」や「壮烈な歴史的場面」の「あかるい」空間性を、かぎりなく「くらく」グチャグチャに壊してしまっている」(同書p341)
  

 相変わらずわかりにくい文章だが、椹木は何が何でも藤田が加害者意識を持っていたということにしたいようだ。これはもうほとんど誇大妄想の世界ではないだろうか。


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