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天国の藤田は〝捻じ曲がった擁護論〟ではなく真実の批評を望んでいる~戦争画よ!教室でよみがえれ㊵

戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。
 目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画で学ぶ「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治の〝戦争画〟を追って(「藤田嗣治とレオナール・フジタ」改題)

(7)天国の藤田は〝捻じ曲がった擁護論〟ではなく真実の批評を望んでいるー藤田嗣治の〝戦争画〟を追って⑩

 千住博は日本画家である。その千住が『名画は語る』(キノブックス)という名画の解説本を出している。この本の中で千住は藤田を取り上げているのだが、この章のユニークなところは著者の千住自身が藤田自身になってみて、一人称で語っている所である。

 千住はこの中で藤田嗣治の『ジェイ布の裸婦』を取り上げて藤田になって藤田自身を語っている。

ジェイ布のある裸婦

 その中に戦争画について語る箇所がある。

「さよう。私は父が陸軍の軍医総監であり、家族も陸軍のエリートが多く出る家系だったのです。この機会にぜひ錦を飾れと言われ、強権的な父に逆らえず、私は帰国して仕方なくこれに従った。つまり私は戦争画を描いたのです。そうするしかなかったでしょう(後略)」(千住博『名画は語る』キノブックス p187)

 いくら架空の設定とはいえあまりに事実からかけ離れている

 確かに藤田の父・嗣章は陸軍の軍医である。最終的に森鴎外の後任として最高位の軍医総監にまで昇進した。だが、嗣章は「強権的」どころか当時としては大変「物わかりのいい」父親で、息子が画家になりたいと言えば黙って画材を買うお金を出し、仕事上のライバル関係にあった森鴎外に相談し、欧州留学も援助している。「錦を飾れ」的なことは言われたかもしれないが強権的ゆえに逆らえなかったとはとても思えない。

 加えてこの書きぶりはいくつかの点で軍人への偏見に満ちている

「仕方なくこれに従った」というフレーズには「強権的」と同時にそこに「陸軍」が重なってこの2つの単語はイコールで結ばれるように読める。軍人=強権的とはステレオタイプも甚だしい。私のおじいちゃんは陸軍少将として終戦を迎えたが、孫には甘くて優しい、普通のおじいちゃんだった。

 もう一つは「そうするしかなかったでしょう」というフレーズである。これはさらに事実をねじ曲げている。「仕方なくこれに従った」という表現と同様に藤田の主体性をまるで無視している。帰国したとき藤田は47歳で3人目のフランス人の奥さんを連れてきている。10代や20代の若者ではない。世界に名を馳せた47歳の画家がいくら父親の言うこととはいえ「逆らえな」いはずがないではないか。
 
 さらに、藤田にこんなことまで言わせている。

「何と言われてもいい。しかし私は戦う人びとに対して、敵も味方もない、人の業のようなもの、宿痾というのでしょうか、その憐憫の情を描いたのです。そもそも軍がでたらめなの誤った戦況を私に伝えてきたのです。私には選択の余地はなく、とにかく与えられた資料をもとに、父の手前もありましたから、戦争という狂気の姿を、一生懸命描くしかなかった(後略)」(同書p188)

 ここにもヒドい事実の間違いがある。

 藤田は計5回も従軍画家として戦地へ赴いている。さらにノモンハン事件の絵の依頼者である荻須立兵中将は、懇切丁寧に資料を用意し、兵士をわざわざアトリエへ連れてきてポーズも取らせている。さらに現地視察もさせている。

「とにかく与えられた資料をもとに」の次に「父の手前もありましたから」をつなげるといかにもウソ固められたわずかな資料をもとに仕方なく描いた、というイメージの文になる。「でたらめな戦況を私に伝えてきた」も事実無根もはなはだしい。先にも触れたが、藤田は5回も戦地へ行ってナマの戦場を見て、兵士の聞き取りをしているのだ。  
 
 私はこの千住博の書きぶりはじつはもっと大きな問題をはらんでいると考えている。それは千住自身の問題ではなく、戦後の日本人自身の問題である。

 これは私の推測でしかないが、千住は藤田を庇いたいのではないだろうか。

 藤田の素晴らしい絵画と藤田の画家としての人生を肯定的に語りたいがゆえに、この戦争期における戦争画をできれば無いことにしたいーという思いがあるのではないか。そこには戦争を悪魔化してしまっている戦後日本人・千住博の心が垣間見える。だが、まさか無いことにはできない。なぜなら藤田が戦争を主題にした絵を描いたのは事実であり、現に今もその絵は残っているからだ。

 ではどうすれば藤田を庇えるのか?
 
 嫌々描いた、仕方なく描いた、無理矢理描かされた、描きたくもないのに描かざる得なかった・・・こうするしかない。これなら藤田の作品の素晴らしさと藤田の人生を傷つけずにすむ。そこで、一人称で語るという体裁を取って庇ってみせるという「寝技」を使って藤田について語ったということではないか。

 私はこれを〝捻じ曲がった擁護論〟と名付けている。

 似たような例は他の画家にもある。

 西原大輔は日本画家・橋本関雪について次のように書いている。なお、関雪が描いた戦争画には『防空壕』『香妃戎装』などの名作がある。下:『香妃戎装』

橋本関雪「香妃戎装」1944年

「戦後、軍国主義が否定されると、まるで橋本関雪がいやいや戦争に協力させられたかのような、いつわりの発言が出て来る。(中略)しかしこれは、子孫が身内を正当化するための曲解であって、現実はそうではなかった」(西原大輔『ミネルヴァ日本評伝選 橋本関雪-師とするものは支那の自然-』ミネルヴァ書房 2007年 p18)

 西原は「いつわりの発言」の例として次のようなものを上げている。「困惑の一端を窺い知ることが出来る」「戦争画などに引き廻された」「空疎なひびきしか伝えない」「全く不毛の世界であった」-どれも、戦後の美術関係者が戦時下に描かれた関雪の絵を評しての言葉である。

 さらに、藤田嗣治の〝もう一枚〟のノモンハン事件の絵についても紹介したい。これはNHKのテレビディレクターである近藤史人が取材で「初めて知ることになった」という有名な〝事実〟とされるエピソードである。

 藤田は1939年のノモンハン事件の絵『ハルハ河畔之戦闘』を荻州立兵中将の個人的な依頼により描いている。荻州がこの戦闘で亡くなった部下の慰霊のために依頼したのである。

ハルハ河畔之戦闘1941

「荻洲中将の四男照之が、今まで誰にも話せなかったという意外な事実を語ってくれたのである。照之によると、実はこの時期、藤田はノモンハン事件を題材にしたもう一枚の絵を描いていた。その絵は残念ながら終戦の混乱の中で失われてしまったが、しばらく荻州家に飾られていたという。(中略)若い照之の心に鮮烈な印象で焼きつけられていたその絵は、すさまじい光景が描かれていた。巨大なソ連の戦車から絶え間なく銃弾が降り注いでいる。阿鼻叫喚の声を上げる日本兵。死体は累々と積み重なっている。その死体の山を踏みつぶしていくソ連の戦車・・・。凄惨きわまりない戦争の実像である。それは、聖戦美術展に出品したものとはまったく異質な、もう一枚の「ハルハ河畔之戦闘」であった」(近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』講談社文庫 p256~257)

 〝もう一枚〟の絵の存在のある・なしの真偽はいったん置く。だが、ここで語られている〝もう一枚〟の絵が本当にあるとしても、上記のような内容の絵は絶対に有り得ない。なぜなら、ノモンハン事件での日本軍大惨敗は真っ赤なウソであることがソ連崩壊後の情報開示でわかったからである。

 以下、真のノモンハン事件の姿を、小田洋太郎・田端元著『ノモンハン事件の真相と成果-ソ連軍撃破の記録-』(有朋書院 2002年)で見てみよう。

 当初のソ連発表ではソ連側の損害は9284名。日本側の損害は5万としていた。だが、日本軍参戦者は3万以下なのでこれはあり得ない。その後のソ連崩壊後の公文書公開によるソ連側報告(「ロシアの記憶」モスクワ軍事出版社1998年)ではソ連側損害・死者は9703名+負傷者1万5952名=計2万5655名、日本側損害・死者8741名+負傷者8664名=計1万7405名となっている。共産主義国の発表資料がどれほどインチキかわかる。

 そもそも、〝もう一枚〟の絵に描かれていたという「巨大なソ連の戦車」など存在しない。上記文献によれば、この当時のソ連軍の戦車・装甲車は37ミリ砲弾が貫通するブリキ同然の粗悪品であり、日本軍歩兵に撃破されている。日本軍はソ連軍戦車・装甲車を左岸作戦では96%以上の430台以上を破壊炎上させた。当時の前田義夫軍曹は「一千米以内に入れば日本軍の速射砲は百発百中だった」と証言している。高射砲は1500m以内でソ連戦車を破壊。さらに火炎瓶攻撃が効果的で、これを恐れたソ連軍戦車は600m以内に入ってこなくなった。

 では、なぜ四男の照之さんは〝もう一枚〟の絵の存在に言及したのか。2つの可能性があり得る。なお、これは私の推測であることをお断りしておく。

 ひとつは別の絵をノモンハン事件を描いた絵と勘違いして記憶していたという見方であり、もう一つは、西原の言う「子孫が身内を正当化するための曲解」という見方だ。後者なら〝捻じ曲がった擁護論〟となる。

 なお、この〝もう一枚〟の絵の存在は美術雑誌の編集者だった藤本氏も証言しているのだが、この証言にも疑問符がつく。藤本証言によれば〝もう一枚〟の絵は「こっそりとカーテンの後ろに隠され」ていた。それを藤田のアトリエで見たというのだが、なぜ隠す必要があるのだろう?そもそも何のために描いたのか?そんな秘密にすべき作品をなぜ一編集者の藤本にだけ見せたのだろう?

 この〝もう一枚〟の絵がすでに存在しない以上、ある・ないは水掛け論になるのでこれ以上は深入りしないが、疑問だらけだ。

 前回紹介した椹木野衣による以下の論評もこの〝捻じ曲がった擁護論〟に当たる。

「それは、彼がひそかにそこに戦争の悲惨さを描くことによって反戦のメッセージを込めた云々などということではなく、藤田の内なる加害者意識の高まりが、結果的に「聖戦美術」としての「大東亜戦争記録画」に定着された「雄大な眺望」や「壮烈な歴史的場面」の「あかるい」空間性を、かぎりなく「くらく」グチャグチャに壊してしまっている」(p341)
  

 何が何でも藤田が戦争に加害者意識を持っていたことにしたい、という椹木の妄想は、藤田を反戦争画家、反「軍国主義」の画家として自分の中に「わかりやすく」収めたいという自己中心的な発想から生まれているように見える。

 千住の話に戻る。

 誤解しないで欲しいが、私は千住博の絵が好きである。その色合いの美しさ、繊細な描写、見ているだけで心が静まる絵は本当にすごいと思う。

千住博『瀧図』

 だが、読者に藤田の絵の真実を伝えたいなら事実を捻じ曲げてまで庇うのではなく、事実をもとに語って欲しい。芸術家として、堂々と藤田の描いた戦争画を真正面から評価して欲しい。

 天国の藤田も事実に基づく真実の批評を望んでいるはずである。


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