SUSUMU YAMASHITA

SUSUMU YAMASHITA

最近の記事

おうちおせち

明けましておめでとう御座います。 旧年中は大変お世話になりました。 本年はより果たすべき貢献に焦点をあてて、一つずつ丁寧に伝えることにこだわり、時を重ねていきたいです。今年もどうぞよろしくお願いします。 年末から台所に篭って仕事をするのが、とても手応えがあって、誰かの笑顔を作る機会があるのは本当に幸せだなぁと思います。 ありがとうございます。 #おうちおせち #お品書き #白味噌雑煮 海老芋・熨斗人参、大根・白菜・牛蒡・蕪 新大工平井餅まんじゅうの丸餅 #炊き合わせ 海

    • 194508091102

      核拡散防止を国際協調の中で行いながら、核をなくしていく技術、平和利用のための技術革新、核の次の技術への挑戦というのは続けていくべきで、多くの人が今も問題を解決しようと取り組んでいることについて、誠意を持って考えていかねばならないことだと思います。このことについては私は勉強不足で多くは言えません。言えることは、祖母が見た大正・昭和・平成のナガサキ、とりたてて私の小さな家族の歴史だけですが、それさえも今や風化していくことに少しずつ焦りを感じ得ない気がします。 祖母や家族の頭上で

      • 伊木力という温州みかんの産地がある。

        伊木力という温州みかんの産地がある。 大村湾を抱えるように拡がる鼻や崎丘にはみかん畑が集在して、遠目でもそれがみかん畑であることがわかる。花咲く5月には、花橘の香を嗅げばと謳う以上にあたりにはハチミツのような香りがただよう。ディーゼルエンジンの列車で浦上から長与を通って、トンネルを抜けると、一面のみかん畑が広がり、ちょうどその時は窓を少し開けただけで、車内には花がにおう。 猫の額くらいしかない耕地で、麦とわずかばかりの米をつくっていた私の祖母方の祖先は、明治になって先駆的な

        • オモテナシの源流はどこか?

          オモテナシという言葉が乱発されていた頃、それが固有のものでるのならば、いったい源流はどこなんだろうかと夢想してみたことがあります。 シーカヤックで対馬の海を漕いだり、東北の冬で「遠野物語」とか読み漁った記憶を辿ってみると、ついつい「おもてなし」の源流は、海でつながった縄文文化にあるのではないかと勘ぐり、そして、それはつい最近まで脈々と地方に根ざしていたことを、僕らはモットみなければと思います。コメとは異なる文化が重層的にあったというのをみつめて行きたいと思います。 日本語

        おうちおせち

          失われつつある食文化、長崎卓袱料理。

          はからずしも、また、大きなご縁をいただいて、京都で日本料理を提供する一端に触れていると嫌が応にもその成立過程や進化の軌跡と向き合う機会が多い。(5年前に書いたメモをリバイスした)。 日本の食文化が一気に華開き、多様な進取の可能性を内包したのは、16世紀の異世界の食文化との出会いだったということは言うまでもない。 南宋、福建から渡ってきたのは、喫茶と禅ばかりではない。 殺生できず、動物性たんぱく質や油脂分を欲した、禅宗の饗宴は精進料理の祖というべき、「普茶料理」を作りだす。

          失われつつある食文化、長崎卓袱料理。

          目にはさやかに見えねども

          高瀬川を下から上へ、40ccのバイクが音をあげて走り過ぎたのを聞いて、通りの窓が開いていたのを思い出した。 自分の寝汗の量に驚き、身体のあちこちが痛いのを認めると、あぁ、発熱したのだと改めて思う。久しく風邪をひいていなかったので、油断をしていたのかもしれない。 約束していたことをお断りして、シャツを着替えて、頭痛薬と胃薬だけを飲んで、また横になる。 普段見ない夢というものを、3本立ての映画のように見て、不可解な筋立てと登場人物を反芻していると、吐き気がしてトイレとベッドを

          目にはさやかに見えねども

          行基と渡月橋、法輪寺。

          十三詣りで高名な嵐山の法輪寺は、元は行基が建立したお寺であるらしい。行基は、近鉄奈良駅前に銅像があるように、関西近隣、加賀や讃岐まで伝説と言えるくらいの言い伝えが多い。 初期の仏教は、どうやらかなりゲリラ的な展開をしていたようだ。精神の向かう悟りを願う集団というより、実利に長けた土木部隊といったほうがいいかもしれない。 枯れた田畑に進んで、井戸を作り、水脈を造成した。水害で疲弊した河川に橋を架け、市を開いた。 このゲリラ集団は、地方にも波及をして、土木技術に裏打ちされた土

          行基と渡月橋、法輪寺。

          初めてのヨガ

          私が30年培ってきたことといえば、身体のカタさだろう。海の向こうで今やヨガマスターになったタイキは、それをよく知っていて、新入社員の頃外は氷点下のトマムの寮で事ある度に笑のネタにされたのをよく覚えている。前屈さえもできず、関節の可動域は狭小。20代前半は気合で何とか克復していたのだけれど、肩凝りと偏頭痛は年経う毎に蓄積されるばかり。 スポーツは、女の子にモテるための手段だとか、球技は耐えず勝つことを要求されるとか、生まれてこのかた、かなり穿った見方しかしてこなかった。ついぞ

          初めてのヨガ

          疲れたら、草枕。

          疲れたら草枕。 〉山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 冒頭であげられるのは、ただただ漏れる愚痴でも、悲壮感ではない。 あくまでも、目の前の世界をグッと客観の域に引き離して、観ようとする画家や芸術家の視点だ。 草枕にいつも勇気をもらうのは、 詩や絵画といった芸術の有用性をその後のくだりで、ハッとさせられるからだ。 〉住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住み

          疲れたら、草枕。

          正岡子規というひとがわたしは好きで、

          正岡子規というひとがわたしは好きで、 ゼミの課題やその時仕事で抱えていた塾や予備校の報告書から逃げるように、図書館でカビた本を繰っては、彼の書いた論評や歌を貪り読んでいたのを思い出します。 明治という時代は、前時代の批判というレトリックを使わないと、人の心に響かないという風潮があったようです。 古典を引き合いに出して、滅多斬り、痛烈な批判の数々は、読んでいて心のスカッとするものですが、ふとひいて読んでみると、それは、世界文学を作らないといけないという強迫観念に似た使命の

          正岡子規というひとがわたしは好きで、

          母の日、薄れていく記憶

          少しずつ母の記憶が薄らいでいる。私のことを、兄と間違える日や、名前さえ言えないことが多い。だだ、息子を目の前にして温かな感情はあるようで、限られた記憶を頼りに、言葉を選びながら、会話を繋いでくれている。季節のこと、彼女の視線の先にあるものをみて、手触りや温感・匂いや味・音などできるだけ彼女の五感をつかえるように。 料理好きで世話好きで、小さな町の図書館誘致など町おこし的なことを、精力的にやっていた人だっただけに、この5年の変貌ぶりに戸惑いを隠せなかった。 ずっと母さんを一

          母の日、薄れていく記憶

          12月12日、我が家の湾岸戦争。

          旧式のソ連製小銃が暴発したのは、彼が軟禁生活を余儀無くされた3カ月目のことだった。 悲鳴が上がったと思うと、夜は氷点下にもなるコンクリートに上に、血痕が真新しく残った。 それは、ふたたび移送が決まって彼を含む人質6人のストレスが一挙にエスカレートした瞬間だった。 突然朝食後に集められ、彼らは移送の旨を通告された。 その伝令役の若いイラク人兵士対して、フランス人の技師が、その容姿と兵士の国を茶化したのだった。憤慨する若い愛国者はイキリたち、取っ組み合いにまで発展した。こういう

          12月12日、我が家の湾岸戦争。

          雪原の列車。

           雪原を走る最終の特急列車が、突如停車したのは、千歳を発って1時間以上経ってからだった。そういえば、足の裏や股のうちに、響く車輪の規則正しい音が、ガリガリと何かを削るような音に変わっていたのを思い出した。  緩やかに減速したかと思うと、ガタンという音ともに、列車は雪原の中にとどまってしまった。左の窓には、折から吹き付ける雪があっという間に積もっていく。きっと信号停車なのだろうと思っていたのだが、アナウンスはない。停車が5分ともなると、窓べの雪とおなじように、徐々に車内に不

          雪原の列車。