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だれかの声を聴くために誰かを排除する

場をつくること、改めて難しいなと思った。
以前から場をつくる人が、だれに声をかけるか、だれとその場をともにするか、それは選ばなければいけない、とおっしゃることにモヤモヤしていた。

「たとえだれかの声を聴くため、だとしても、それは排除ではないか。」


ただ、今日それはやはり排除ではなくて、相性である、と思った。

つくりたい場に対して、どの人とともにあるか、は、
むしろ場に来ることになった人にとっても、そうでなくなった人にとっても、よい時間を過ごすための積極的な選択である、と思った。

そうでなくなった人に対しては「来てもらわない」理由を与えることになる。
来てもらわない理由は一見ネガティブである。
その選択肢をその人に対して提供「しない」理由であるからだ。

だれかに対しては与えるのに、その人は違う、と勝手に決めつけるのだ。
なんと暴力的なことだろう。

しかしながら、場というのは何らかの意図を持ってつくられている。
それがどこまで言語に落とし込まれているか、落とし込むべきと思われているか。
また、場をつくる人がそれを認識しているか、しないないか。
等にかかわらず、意図があるのだ。

つまり、意図がある限り、だれかにとってはよい場で、だれかにとってはよくない場になりうるのだ。
それを判断して、だれに来てもらうかを決めるのは場をつくる人の責任の範囲だろう。
そこを考えずに、とりあえず来てもらうと、つくる側にとっても、意図の上にいる参加者にとっても、呼ばれた側にとっても、つらい場になるのだ。
意図に乗るか乗らないか、というそもそもその場とは何かを問い続けることになるからだ。

今日はそんなことを感じた日だった。
場をつくってみたからこそ、感じられたことだったなー。


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