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問いを持って生きる

「問いを持って生きる」といいらしい。

最近もっと頭を使って生きなければ、PDCAを回して生きなければ、と強く思っていた。

そこで、聴いたのが「問いを持って生きる」というワードだ。

なるほど、、?

プランを立ててしまうこと、仮説を持っておくこと、というよりは、
あえて問いでとどめておくということなのか?と思った。

このメリットはおそらく「そこにあるものをそのまま体験できること」ではないかと思う。
こういうことではないか?と思って生きた瞬間に、それ以外の可能性を見えなくしてしまったり、歪曲して自分にとって都合よく見てしまったりする可能性がある。
それらを避けるためにはあえて問いを持っておく、にとどめた方がいいのかもしれない。

一方で、結局多くの仮説を持っておかなければ、そこにあるものを「見える」ようにさせられないのでは?とも思う。
「見る」と「見える」では次元が異なっているはずだ。
今目の前には、机も椅子もリモコンもティッシュ箱もあれこれあるけども、私に見えているのはPC画面のみだ。
視界に入っていても見えないモノは私たちにはたくさんあるはずだ。

そう思うと、問いだけでは不十分だったりしないか?と思う。


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