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「理由の後付け」は悪なのか

何かを“直感的に”決断した際に、後からその理由となるものが出てくることがよくある。いわゆる、「理由の後付け」と呼ばれているもので、それをあたかも決断する前から把握していましたみたいなことを「せこい」だの「それは後付けに過ぎない」だの言われる。

しかし、本当に決断後に出てくる理由は後付けだけなのか?僕自身、「理由の後付け」を結構後からしてしまうタイプなので、この問題とは結構長い間付き合ってきたつもりである。

そんな僕が最近出した結論は、「理由の後付け」は決して一方的に悪いものではないし、そもそも言語化できたのが後なだけで内に秘めていたものもあると考えると根本からこの問題を考えなければないけない、というものだった。

多くの人が体験している通り、何かの決断は説明できること理由だけでその合否を決めているわけではない。言葉にはしにくい第六感的なものや直感的なものは決断に結構大きな影響を与える。

問題の難度が増せば増すほど、画一的な正解が存在しなそうな問題ほど、この傾向は顕著に出てくる。しかし、自分の中でしっくり答えが出せなくても、仮の答えを出すためにも人はなんらかの決断をしなければならない。

そんな時に人は「理由の後付け」によって、その時は言語化できなかった第六感的なものや直感的なものを言語の形で後天的に獲得する。

これが全てだと言わないが、これこそが僕が長年困っていた正体であり、一種の「理由の後付け」が一概に非難されるべきではない理由である。

人は、言葉にできることだけが全てではないし、どんなにトレーニングしたって全てがピタッと既存の言葉にはまるわけではない。しかし、社会が求めているのは完璧な論理とあたかも全てを把握していたかのような超人的推察能力である。そんな完璧な人間などいるはずもないのにだ。

「理由の後付け」は決して悪いものではない。それは、内にもともとあったものが時間差で言語という形でアウトプット可能になっただけで非難されるものではない。

ただ、これがもともとあったものかどうかが非常に分かりにくい。何より。自分の記憶はすぐにそこらへんを自分の都合のいいように修復する癖を持ってしまっている。

神よ。もともとあったものを主張できる勇気を、もともなかったことを受け入れられる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ。

1997年の日本生まれ。