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花火のような生き様

多くの人は、人間特有の感情や欲望の波に負けて、恒常的な努力を怠ってしまう。故に、ずっと努力を続けられる非人間的な人は強い。

しかし、欲望に流されながらも自分の理想と現実に苦しんでいるような人の方が共感を得やすい。ほとんどの人は、自分とはかけ離れている人よりも自分に近い人を応援したくなる。

先天的な才能をそこには感じないのだが、紆余曲折しながら自分を少しずつよくするで大きな成果を手に入れるストーリーは多くの人を惹きつける。

先天的な才能を大いに感じさせる「天才」と呼ばれている人たちは、その努力と気質ゆえに慢性的に強い。各業界でレジェンドとして崇められるような人は間違いなくこのタイプの人である。

一方で、人間的な人は調子の波に大きく左右されるため、瞬間的な活躍しかできないことも多い。芸人で言うならば一発屋と言われる人たちが近い。

「とてつもない瞬間最大風速をもって一瞬だけ爆発的に輝き、一瞬で消える」といったような活躍の仕方をする。

復活劇こそ最高のエンタメ

前者と後者のどちらがいいのか問われたら、大体の人が前者の「天才」タイプを選ぶのだが、僕は後者の方にこそ魅力があるように感じている。

なぜなら、人は落ちた人がまた何かのタイミングで再起する復活劇が好きなので、後者の方がより多くの人を楽しませることができるからである。

漫画やアニメを見てもらえば分かるとおり、人生においての浮き沈みが周りの人々を熱狂させるし、その浮き沈みの激しい生き様こそがもはやエンターテイメントの王道となっている。

逆に言うのであれば、多くの人が求めるような「天才」タイプは安定するかもしれないが、人々が最も熱狂するエンターテイメントは作れない。

ダンスや歌などのパフォーマンスがいかに凄くても、人の生き様・人の人生に敵うコンテンツはない。人の一生というものの浮き沈みが最も面白く、最も人を惹きつけてやまない。そんな気がしている。

そう考えると、その人が行なっているダンスや歌などのパフォーマンスは人生の中のスパイスでしかなく、人生に彩りを添えるためのものに過ぎない。

復活劇必要な「落ちる」ということ

誰だって人から「落ちぶれた」と言われるのは怖い。誰だって人から忘れられるのは怖い。

しかし、その業界の中でずっと忘れられないようなレジェンドになることは宝くじが当たるくらい難しいのは自明の理であり、殆どの人が忘れられるという帰結を迎えるのが事実である。

故に、花火のように輝いては消えるのは自然なことで、一つの業界にしがみついておくのは最も危険な行為である。

確率から考えて、落ちぶれることを恐れることは死を恐れることくらい意味がない。落ちるのは当たり前なんだから、いかに自分が活躍できる一瞬に瞬間最大風速を出せるかを考えればいい。

一番頑張るべきポイントは、その輝きを色んなところで何回も何回も起こすことである。その数が多くなるほど、人は熱狂する。こんな簡単にいっていいほど簡単な話ではないが...

花火のような人生には安定などないかもしれないが、花火のような人生が最も美しい。なんせ、花火があんなに美しいのだから。

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1997年の日本生まれ。