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幼馴染から親友への変化。限界関係性オタク魂の救済アニメ【Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-】

ふたり 重ね組み立てて
ふたり 結んで繋いだ
やがて 違う夢を見て
たまに 君を寂しく思っても
きっと あの日と変わらないまま
心は そばにいる
隣に きみがいる

続く話/せるふとぷりん

力、ただそれだけを求める。笑いもネタも求めない。限界関係性オタクが真に求めるもの、それがこの神アニメ【Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-】には存在する。


このアニメは限界関係性オタクの琴線に触れる圧倒的な力で満ちている。言うまでもない、幼馴染である「せるふ」と「ぷりん」の関係性だ。
この二人の関係性の描き方について、このアニメは完全に覇のなんたるかを理解していた。特に思い出、過去の出来事を使用した2人の関係性の構築と描写は圧倒的クオリティを誇っている。
はたから見たら親友同士の二人だけどその間には本人たちにしかわからないわだかまりがあって、それを解消して親友が本当の親友になる話。親友でありながら、幼馴染から親友になる。この重みを噛み締めることは即ち人生の充実に直結する。

このアニメはタイトルの通り「自分で何かを作る」ことに重きを置いている。それは物だけではない、特に自分の居場所を作るという点はジョブ子入部の辺りから顕著に見られる。
せるふはDIY部を通じて新しい友だちを作り、新しい学校で新しい居場所を作った。それはせるふ自身が選んで行動した結果である。
DIY部は基本的に「新しい」の集まりである。新しい友達であったり新しい企みであったり、それらの本編中における到達点は自分たちで作る居場所の延長線である「秘密基地」であった。

そんな中でこのアニメにおいて限界関係性オタクである私が特筆しなければならないことは前述の通りひとえに「せるふとぷりんの関係性」である。これに尽きる。
変わったものと変わっていくもの。そして変わらない二人の思い出。これらの要素を駆使した演出とストーリーはあまりにも限界関係性オタクの胸にきた。それを記さずして何を記すかというわけだ。

「一つの思い出」が「同じ一つの思い出」になるまで

新しい友だち、新しい居場所、新しい楽しさ。これらはこの作品の大きな要素で、新しいものを作るというテーマは物だけに留まらない。
重きを置かれている要素の中で、唯一新しい関係でないものがある。それが「幼馴染」という関係性だ。
新しい関係ではない、とは変化がないということではない。幼馴染という関係でありながら作中の序~中盤においてと終盤でのせるふとぷりんの関係性は変化を遂げる。関係性だけでなく、本人たちもまた子どもの頃とは変わっていた。

せるふはぷりんとの間に昔とは違い少し壁を感じていた。最近はあまり一緒に遊ばなくなったり、昔は毎日一緒に帰っていたのに学校が変わって一緒に帰らなくなったこと。自分は変わっていないけど、ぷりんが少し変わってしまったと。そうせるふは感じていた。
ここで重要になっているのがせるふ本人は変わっていないと思っているが、ぷりんの中のせるふは変わった。という点である。そして同じようにせるふもまた、ぷりんは昔と少し変わったと思っている。だが本人は変わっていない。
このお互いのすれ違いにこそ限界関係性オタクの求める宇宙は存在する。二人とも本当の根っこの部分、お互いを大事な友人だと思う気持ちは変わっていないのだがお互いに向こうは少し変わったと思っている。特にせるふがだ。そこを理解してから本編を、ひいては10話のせるふがぷりんをDIY部へ誘うシーンを見ることが重要となる。

そんな二人を繋ぐ思い出で重要なものは2つ「ベンチ」と「ウィンドチャイム」だ。この2つがどのような働きをしているのかを知ることでこのアニメの火力は何倍にも跳ね上がる。

二人を繋ぐ思い出のベンチ

いつかの思い出 変わらず愛しい

続く話/せるふとぷりん

思い出のベンチが2人の関係を再び繋げた。なぜベンチが必要であったのか、その答えは6話と10話の対比にある。

6話でせるふはぷりんをDIY部へ誘っている。なぜぷりんは海での誘いに答えられなかったか。あの時と10話と何が違うのか。その答えは「思い出が一方通行だった」から。
せるふと一緒にいたいというぷりんの本心は伝わらない、素直になれないから。素直にそう言えないから。

それを伝えてくれたのが思い出のベンチという共通の想いの存在である。

6話におけるせるふからぷりんへの言葉は【DIY部に入ったら?】と【ぷりんも入ってくれたら】であり、10話では【一緒にやろ】と【ここへおいで】になる。
せるふの中で「今まで一緒にいたからまた一緒に遊びたい」という想いから、純然たる「一緒にいたい」ひいては「隣にいてほしい」に変わる。そして、ぷりんもまたそうであると感じる。だからこそ【ここへおいで】という言葉が出る。
10話のあのシーン、あの場で上を見上げることによりぷりんがずっと自分を見ていてくれたことに気付く。同じベンチの思い出を共有していることもぷりんの持ってきたベンチの板で気が付く。そしてあの頃の楽しさを思い出し、ぷりんも嫌でないという確信を持つ。

DIYなんて嫌かもしれない。けどぷりんが入ってくれたら毎日一緒に帰れるし楽しくなる。そんな思考から、ぷりんも一緒にやりたいと思ってくれているという推して知る。
なぜならぷりんは二人の思い出のベンチを忘れていなかったし、それをせるふに使って欲しいと持ってきたから。同じように覚えていてくれたし、昔から変わらずに自分を見守り続けてくれていたということに気付く。
だから【入ってくれたら】ではなくて【一緒にやろ】という言葉に変化した。この言葉の変化もまたDIYである。前者の受動的な言動でなく、後者の能動的な言葉だからぷりんをあの場へ連れてくることができた。

ぷりんのもってきた思い出のベンチは本編中において、お互いの一方的な回想の産物であり、それが共有され懐かしまれることはなかった。10話までは。
ぷりんがあのベンチをもってきたという事実。それはせるふの中で「あの頃」のぷりんから変わっていないことの証明になった。だからDIY部に誘えた。勉強が忙しくて迷惑でないか、カビ臭いDIYが嫌ではないか。そういった杞憂が消える。ここで初めて「ぷりんと一緒に作りたい」という点に思考がシフトする。どうしたら仲直りできるか、どうしたら喜んでくれるかではない。「一緒に作りたい」なのである。

2人の中で同じ思い出が生きていた。思い出を話して共有しなくても2人で遊んだあの思い出のベンチは変わらずにお互いの美しい思い出となっていた。そのベンチがまた2人を同じ空間で活動するきっかけになる。
せるふはまた2人で遊べる時間を求めていた、ぷりんはせるふに頼られたかった。昔のように世話を焼かせてほしかった。だがそこで安易に昔を取り戻させないのがこのアニメの素晴らしいところ。
せるふは成長した。ぷりん以外にも絆創膏を張ってくれる人ができたし、頼れる友達もたくさんできた。だからこそせるふは世話を焼いてくれる人でなく純粋な友達として、幼馴染として親友としてぷりんと一緒にいたいと思う。
故にあの言葉は誘いであり、救いである。今まで支えれ、助けられてきたせるふが今度は素直になれず苦しむぷりんを救う。
不器用なせるふはぷりんに絆創膏を貼ってもらい、素直になれないぷりんはせるふに引っぱってもらう。救いでありながら、支え合い。救い合いとでも言うべきであろうか。互いにお互いのためにできることをやることに喜びが生じる。こういった関係性を接種できることは限界関係性オタクにとって至上の幸福である。

お互いがちゃんと相手の意志を尊重しているからこそ生まれていた距離感を縮めてくれるのが同じ一つの思い出なのだ。一方通行だった思い出の回想が実は繋がっていた。そしてそれはウィンドチャイムにおいても重要な要素となる。

二人の心の距離を表すウィンドチャイム

二人の思い出はベンチだけではない。作中においても重要な存在であるウィンドチャイムもそうだ。

ぷりんは自身の部屋からも、せるふの窓からも見える位置にウィンドチャイムを吊るしている。ベンチは2人で共有した道具であるのに対し、ウィンドチャイムは交換した物だ。ぷりんの部屋のウィンドチャイムは序盤から出るが4話まで鳴らない。
4話においてはぷりんとせるふはお互いの家へ久しぶりに訪れて一緒にジョブ子の引っ越し作業をする。この話でウィンドウが少しだけ風に揺られて鳴るのは2人の関係が少し昔のように戻ったということを示唆していることに他ならない。

ぷりんはいつでも見ることができるように窓から吊るし、せるふは失くさないように大事に仕舞っている。「宝物」に対する扱いで見る2人の対比も面白い。
だがこれは対比に見えて本質は全く同じである。
せるふは部屋に2人でベンチに座って遊んでいた思い出の絵を飾っている。ぷりんはそのベンチを物置に大事に取っていた。同じなのである。ここにこそ本質がある。どちらも同じように大事な思い出である。
そこに一方通行の回想という形で見えるすれ違いの演出をしてきたのがあまりに憎い。本当はそれが一方通行でなくちゃんと繋がっているとしっかり終盤で分かるのもカタルシスが素晴らしい。
せるふにおけるベンチがぷりんにとってのウィンドチャイム。お互いがお互いに覚えているかなと思っていたものがそれである。実際はお互いにどちらもちゃんと覚えていた。すれ違っているように見えてずっと繋がっていた。これらを一方的な回想という形で魅せている。
この一方的な思い出の活用があまりにも美しい。要所で見えていた片方の思い出は当然相手も覚えていた。それを形で感じさせてくれている。

そしてこの作品の集大成とも言える「秘密基地」の完成にもこの力は及んでいる。
せるふ自身すら忘れてぷりんだけが覚えていた「秘密基地を作る」というせるふの夢。これがひいてはDIY部みんなの夢になる。DIY部としての居場所、その精神の象徴である秘密基地は無事完成する。
だが「DIY部としての秘密基地」は完成するも「二人の思い出の秘密基地」は完成していない。なぜならそこにはまだベンチもウィンドチャイムもないから。せるふとぷりん、2人の夢を本当に完成させる為に必要なものは2人が覚えていた思い出のベンチとウィンドチャイム。
この2つが揃わないといけない。片方だけを置くことは前述した思い出が一方通行であると証明してしまうことに他ならないから。だからこそ2つを置くことで「二人の秘密基地」は完成する。
そして当然、お互いにベンチのこともウィンドチャイムも覚えている。思い出と形は変わるがその本質は全く変わらない。2人で作って、2人で過ごす。その大切な時間に変わりはない。
一方的な回想に対して最終回においてその明確な答え合わせが成される。この構成の美しさ、これが覇でなくてなんだと言うのであろうか。

せるふのことを尊重しているからこそ生まれた距離

きみはいまでも無邪気なままで ちょっともどかしい

続く話/せるふとぷりん

最終回で明かされた中学の卒業式でせるふからぷりんへ放たれた【一人でやるからもう大丈夫】という言葉。これがあったから本編中ぷりんはずっと影からしかせるふを支えることしかできなかった。
それはぷりんがせるふのことを尊重しているからだ。ただの庇護対象や世話を焼く相手ではない、せるふの意志を尊重して大切にしているからその言葉をずっと重んじたのだ。
せるふからしたらぷりんに迷惑をかけている、だからと何気なく言った言葉がぷりんには鎖となった。

だがここにこそ、この作品が持つ大いなる力の奔流が存在する。作中において、ぷりんは終盤までDIY部に所属しない。だがDIY部と同じ活動をしている場面は少なくない。ジョブ子を通じいてアクセサリー作りをしたり設計図を作ったりと同じように活動していた。重要なのは名前ではない、ということだ。
DIY部というのは部活動の名前であるが、せるふとぷりんの関係の名前ではない。違う学校に通って違うことを学んでいるから同じことをやってはいけない理由にはならない。DIY部に入っていないから同じことをしてはいけないなんてことはない、それは本編中の行動が証明している。だからこそぷりんがDIY部に入ることは尊ばれるべきことである。

6話での海のシーンはぷりんの抱く特別をよく感じられる話だ。
ぷりんは前よりもせるふの怪我が減ったということを部長から聞き、彼女の成長を知る。もうせるふに絆創膏を張ってあげる相手は自分だけではないし、代わりにやってあげる誰かも自分だけではない。
DIYだって不器用なんだからそういうことは「誰か」に任せたらいい。その誰かは自分であって欲しいけどそうは言えない。それはせるふの「一人でやるから大丈夫」という言葉があったから。それにせるふにはDIY部に友達という「誰か」が既に存在しているから。
このように昔と違ってもう自分はせるふの特別ではないということにショックを受けているであろうことが読み取れるシーンが多く存在している。

ちなみにせるふが自分で絆創膏を貼るシーンはない。1話の時点から保健室の先生に張ってもらってるし誰かに絆創膏を張ってもらわないといけない危なっかしい子であることに変わりはない。せるふやぷりんの会話から今まではずっとそれをぷりんがやっていたことを読み取れる。ぷりんはそんな距離感が心地よかった。
だからこそ自分がせるふを見ていなくても他の誰かが彼女を見ていてくれる。せるふにはもう幼馴染の隣だけでないDIY部という居場所がある。それを再認識せざるを得なくなる。
だからぷりんは海でも最後にDIY部のみんなの輪に入れなかった。9話においてもやはり輪に入れずそこが自分の居場所じゃないと自分自身を戒めるように【課題やらないと】と意識が自分の方に戻された。

だから変わってないことに安堵する。あの頃のように毎日絆創膏を張ってあげたいから不器用であり続けて欲しいと願う。でもせるふもDIY部の活動の中で成長している。人間関係も自分自身も、確実に変わっていた。
だからこそ、変わっていないものが美しいというわけだ。この対比とメリハリなのだ。
それがなにか、そう。二人の本質的な関係性と同じ思い出だ。幼馴染であり、大切な友人。ジョブ子の言葉を借りるのであれば「ベストフレンド」
世界は機械化によって変わっていくし生きていく環境が変われば新しい人間関係もできる。それでもせるふとぷりんの関係は変わらない。少し距離の空いた時間があっても、ずっと変わらずに親友でいられる。

そういった面を強調するという確固たる意志をこのアニメからは強く感じられる。
二人の幼馴染という関係そのものに変わりはないけどそれだけではない。幼馴染であるが前よりもっと強い繋がりがある。変わらずに親友であるがより強い関係性での親友になった。
作った秘密基地に思い出のベンチを使い、約束のウィンドチャイムを吊るすことで2人の関係は完成する。幼馴染であり、親友。今までよりも確固たる、絶対的な関係。
言葉にすれば変わらず「親友」であるがその重みは最初と最後でまるで違う。ここにこの世界の素晴らしさ、強さ、そして美しさが詰まっている。これこそが限界関係性オタクの求める力。

そしてこれらのぷりんの葛藤を踏まえてから1話の【シャツくらいちゃんとしまいなさい】を見るともう脳から液が漏れるのなんのといった次第である。

答えはいらない

このアニメは中学時代のせるふとぷりんの関係がどんなものであったか、受験勉強がどのような様子だったのか、あの思い出のベンチはなぜ壊されたのか。そういった絶妙に気になるところが説明されない。
私がこの記事で語ってきた話も半分くらいは完全な答え合わせのない考察に過ぎない。だがそれこそが作品との心地よい距離感であり、この作品に合っていると私は考える。
見る側であるこちらも、自分自身で自分だけの考察を作り上げることができるのだから。そこにこそ真髄が存在する。このようにちゃんと核となる描写はされているが全てを説明しないスタンスこそが想像を掻き立てる。自分で多くのことを想像することができる。

そういった意味でも2話で提示された「何もしなくてよくなったら何をするか」に対するアンサーは各々なりの考察によって別れるであろう。
私は作品の在り方そのものがその答えであると考える。何もしなくてよくなったら、何をやるか考えて決める。誰かと、みんなと。なにかを考えて作る。それは結果も過程も楽しいことだから。欲しいものは店に行けば売っているしロボットがやってくれることは多い。それでも自分で、みんなと何かを作ることは楽しいから続ける。
これが答え。だからこそ用意されたものじゃなくて自分たちだけの秘密基地、居場所を作ることができた。その美しさ。それこそがラストに繋がる。
思い出のベンチはせるふとぷりんの二人で作ることに意味がある。ベンチなんて他に売っているしAIに作らせることだってできる。でも自分たちで作る。思い出は二人の中にしかないから。だから楽しいのだ。

全てを説明してもらう必要はない。なぜならば、せるふとぷりんの二人だけの世界に他者への説明は必要ないからだ。だからこそ、見て考えて読み取れる材料を残していてくれているのはあまりに助かるというもの。このアニメは過剰に説明せず、くどい演出をしていない。それがあまりにも考察のオタクとしても高評価である。

答えは求めない、自分自身で見つけて作り出すから。我々もまたDo It Yourselfの精神を忘れない。関係性に明確な答えは無い。故にこの考察も私の一人で作った考えに過ぎない。
自分だけの視点と発想で考察することで、このアニメはただ見るだけよりも遥かに面白くなる。自分だけの世界を見つけ、作りだす。

それが俺たちの「DIY」

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