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私は小劇場演劇を好きになってしまった

 知らないことに惹かれてしまう。私は小劇場演劇を知らなかった。生まれ育った鹿児島で私が見ていたのは、子供ミュージカル、ときどき来る劇団四季と、学校の体育館で上演される地方巡業の公演。もちろん劇団や演劇サークルの学外公演などはあったが、小さなまとまりで会場を借り、公演をうつことが、珍しいことだと思っていた。

 私が”小劇場演劇”にハマったのは、18歳のときだった。演劇サークルの先輩にオススメしてもらった舞台だった。先輩にオススメされたので、遠足みたいに後輩たちで電車に乗った。その中でも一番のしたっぱだった私は、はじめて乗る上りの中央線で新宿に向かった。細い路地を抜けてついたのは新宿眼科画廊。閉じ込められるみたいな狭い地下に腰をおろした。私が観たのは、観たことのないお芝居だった。

 全てが目の前で起こる。白い壁の色を変える照明は私の手のひらを青く染める、長方形の部屋をワゴンがすべり、私の隣を横切って行く。帰りの満員電車で知らない女の人にギュウギュウに挟まれながらも、私はさっき見た舞台のことをずっと考えていた。

 どうやら「舞台が上演されている」という状態が、東京で珍しくないのだと知ったのは、上京して初めての夏を迎える頃だった。いくつかの公演を見にいくたびに、これから上演される舞台のチラシがパンフレットに折り込まれている。私は興奮した。いつもどこかで舞台をやってる! どっか行けば芝居が見られる! しかもチケットが安い! それから私は少しずつ、舞台を観るようになった。

 先輩にオススメされた舞台だった。また地下だった。ランウェイのように細長い舞台は、次から次に場所が変わる。なにもない舞台のことを素舞台と言う。なにもない空間が、人によって、病院に、崖に、電車に、変わっていくのが不思議だった。そして私は、暗闇の中、流れ星を見た。なんてことはない、俳優が手にした小さなライトを振る動作。でもそれが、途方もなく美しかった。登場人物たちが見ている実態のない景色を、観客も同じように見ることができるのだと知った。

 先輩と行った舞台だった。ギリギリの電車に乗ってしまって、新宿駅から劇場まで走った。息を整えながら席に座ると、異様な観客に気がつく。扉が閉じられ、客席が暗くなっていくと浮かび上がったその観客が話し出した。新宿を舞台に繰り広げられる机上の追走劇。死の危険がすぐそばにある、ヒリヒリとした緊張感が私の呼吸を浅くした。そして、最後の暗転。ドキドキしながら強く強く拍手をした。会場を後にして、私達は舞台となった新宿を巡った。はあ、ここが花園神社。ここであの事件が起こったのですね。などと言いながら、現実と舞台の虚構が重なりあうような体験をした。

 そして、私がこれまでに見た舞台のなかで、「知ってしまった」と感じた舞台を紹介したい。

 先輩の家でDVDを見せてもらった。ご飯を食べさせてもらいに行ったら突然流しだされた映像に私は夢中になった。先輩の家だとかどうでもよかった。夢中になって無言で観た。ほんとうにほんとうに、ほんとうに初めて見るものだった。丸い舞台も、回る人たちも、ラップみたいなセリフも、人間が家電になるのも、お菓子も抱きかかえた星もぜんぶが初めて見る物だった。全部が新しく感じられる。なのに、そうやって表現されている、登場人物がもつ寂しさとか悲しさとかはとてもよく知っているものだった。私が抱えている気持ちを、こんなふうに形にする人たちがいるのだと、知った。

 再演を自分の目で見ることができた。DVDとは少しずつ違うものだった。その違いがまた不思議だった。変えなくてもいいのになあ。マイナーチェンジ、みたいな、マイナーコードになったような感じ方の変化があった。でもやっぱりとってもおもしろかった。私はこれが好きだなあ、と思った。こんな演劇がしたいなあ、とも思った。そのとき、私は演劇サークルで次回公演の演出をつとめていた。重荷だった。自分のやっていることと比べて、こういうふうにできたらいいのに、どうやったらこんな演劇ができるんだろう、と考えた。どうやって練習してシーンが作られていったのか、想像ができなかった。もらったアポロを食べながら帰った。

 小劇場演劇の好きなところは、やっぱり、距離の近さだと思う。呼吸の音が聞こえるくらい、舞台と客席の距離が近いから、登場人物の心の中で何が起きているのか、想像させられる。心臓の脈拍が同期させられてしまう。そのことにめちゃくちゃ興奮する。俳優の発した声が小さくて、何を言っているかわからなかったとき、何かを言えなかったことに気がつける距離感。小劇場演劇には小劇場演劇が得意なことができる。細やかな芝居が放つ微細な光が観客の目に届くのだ。まるでスモールベースボールじゃないか。

 この文章を書きながら私が残念だと思うのは、私が感じた面白さを百パーセント伝えられないことだ。そして、ここで挙げたいくつかの公演は、私が知っている中のほんの一部だ。私が生まれ育った鹿児島にも小劇場演劇はあるし、名前を挙げていない公演もたくさんある。そして、私が観た公演だってこれまでに上演されてきたものの一部でしかない。

 たくさんの舞台の多くは、自分で見つけたものではなく、人から教えてもらったものだ。なかでも、先輩から教えてもらったものというのは、特に印象に残っている。だって先輩が大好きだから。私はうまく後輩と接することができなくて、先輩から教えてもらったようなことをたくさんは教えてあげられなかった。だからせめて、ここでこうやって、私はこういう演劇を知ったよ、と言いたい。世の中には知らないことがまだたくさんあって、そのうちのいくつかが(そしてたくさんのことが)小劇場演劇にはある。

 学生の頃は、まさか自分が劇団を作って人を集めて会場を借りて、公演をするなんて想像もしていなかった。私の知っている世界で珍しかったことが私の身に起きている。何回やっても新しい発見があるし、そのたびに嬉しくなる。うまくいかないことでさえ愛しい。どうしたらおもしろくなるんだろう、と考えることが楽しい。私がこれまで見て来た舞台に関わった人たちも、こんなふうに思っていたんだろうか。舞台からもらった感情を、いま私は舞台から、観てくれる人に届けられているだろうか。

 良いニュースがあった。

 半分に減らされている客席が、今後は満席にしても良いいらしい。市松模様のように開けられた座席は、確かに座り心地は良かったけれど、私は好きなものはより多くの人と共有したい。小劇場演劇は、ただでさえ観た人の数が少ない。「あの舞台、おもしろかったよね!」と感想を語りあえる日が、はやくまた帰って来てほしいと思う。

 新しい演劇を、もっと知りたい。

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